江戸の農民10                                          江戸の農民TOP  江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

武士は兼業商人

■領主側では百姓の余業・余稼は「農業の外」としていた。農業というのは栽培作業全般ではなく、穀物生産のことを指していた。端的に言えば稲作りが農業そのものであった。畑地にも石高制が適用され、栽培したものすべてが米の生産量に換算されたことからも明らかである。
 江戸時代の農業政策は、1組の夫婦を中心とする単婚小家族の農業経営=小農の自立育成を基本とした。よって凶作の年には領主側は、生産面では籾種・麦種などの種貸(たねかし)、生活面では五穀・芋・蒟蒻などの夫食貸(ぶじきかし)、年貢・諸役の軽減を行い、小農の再生産=年貢皆済へ向けた御救(おすくい)を施している。
 なぜ小農の自立育成かといえば、領内に大地主2、3人の他はすべて小作人だとしたら、領主は自らと並ぶ者の出現に警戒するであろうし、また現代に譬えれば、大資本家2、3人の他はすべて生涯契約社員の社会は、人の創意工夫意欲を削ぐ遣りがいのないものとなろう。

■領主にとっても百姓にとっても小農自立育成は無難な策だったと言えよう。しかし、すでにみたように年貢皆済すると小農経営は赤字となり、生計を立てるために余業・余稼があったのである。余業・余稼は小農として自立するためには、必要不可欠なものだったと言える。
 初めは自給自足のために栽培加工していたものが、余業・余稼へ転化していくわけで当然これらに対しては年貢は課せられなかった。だが、余業・余稼が広がるにつれ、領主側も見過ごしにできなくなってくる。加えて領主側は藩財政の逼迫という深刻な問題も発生してくる。
 多くの藩が雑税という形で取り始めるのが、享保期(1716-1735)頃からである。なお正しくは、雑税のことを小物成(こものなり)、田畑年貢は本途物成(ほんとものなり)と言う。そして天明期(1781-1788)頃には徳用(換金)作物の奨励、特産物の導入、専売制度施行と領主側自ら百姓の余業・余稼を猛烈に促進するようになる。
 これは事実上の石高制の崩壊であり、藩の商舗化と言えるものであった。

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