村役人は百姓でござる
■百姓について述べてきているが、基本的なことを書き忘れていたかもしれない。最近ある人から、江戸時代の「村役人」は下級武士の役職だったのか、と尋ねられたのである。 「役人」が付いているせいかと思うが、「村役人」とは村の中で持高の多い百姓が務める役職である。名主(庄屋)・組頭・百姓代を村方三役と呼んでいる。組頭に代わって年寄・長百姓という名称だったり、五人組頭も村役人に準ずるとした地域もあったようだ。身分はみな百姓である。百姓代は「名主・組頭へ百姓よりの目付」として設けられていたが、名主・組頭を務める家が年番で回し合ったりしていた。 また、年貢は個々の百姓に領主側が割り付けた、と誤解している人もいる。領主側が年貢を割り付けたのは個々の村に対してであり(村請け)、個々の百姓の持高に応じて年貢を割り振ったのは村方三役である。
■よって村方三役は村の運営管理人だったわけで、百姓たちから運営の仕方がおかしい、管理がズサンだなどと騒動がもちあがることが多かった。年貢や小物成、諸掛かり(夫役など)の割り付けの不正や、村方三役
= 有力農民に対する借金・小作料をめぐる攻撃糾弾などがあった。 こうした村方騒動は村役人の罷免・交替を要求して、入札(いれふだ)すなわち投票で新たな名主(庄屋)を選ぶという方法が、江戸中期以降にみられるようになる。交替要求からのものではないが、美濃国大野郡(現・岐阜県揖斐郡)の村で、元文4年(1739)に庄屋入札が行われている。 当時この村にはかなりの年貢未納金があった。そのため庄屋の後任になり手がなく、領主側から3、4人の候補者を選ぶよう申し渡されても、候補者さえ絞り切れずに、遂に入札になったのだった。 ストレスご苦労さんな村役人は結構いたようである。 |