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商いする百姓に領主は?

■江戸時代の百姓は売れるものには貪欲であった。売れると耳にすれば栽培する。売れるものの原料になると聞けば採取し、あるいは加工する。自分で売ったほうが実入りがいいと知れば、振り売りして歩き回る。そして居宅を貸したり店にしたりして物を売る。技術を身に付けていれば賃銭を取り、身体が頑健であれば力仕事、体力がなくても雑仕事で賃銭を得ていた。
 これらは「余業」「余稼」「農間渡世」などと呼ばれ、「農業の外」「作間」のものと位置付けられていたが、領主側ではこれをどう見ていたのであろうか。早い例として加賀藩の寛文元年(1661)の禁令に、「在々の村、餅・酒・小間物など振り売り、ならびに道筋に小屋をかけ、右商売を致さざる様に」とある。水戸藩では元禄14年(1701)に、「近年は新規に小間物店相見え候、小村か様の物これあり候へば、その村は申すに及ばず近郷までも無益の費えこれあり」。

■水戸藩の禁令は他の百姓へ類が及ぶのを恐れているものだが、享保7年(1722)には幕府が、「総じて百姓農業を粗略に致し、商売に懸かり候儀、停止候べし(中略)これより新規に商売致すべからず事。耕作専一に精入れるべき事」。安永6年(1777)には、「奉公稼に出で候者多く、所持の田畑を荒しおき候類これある由相聞き、不埒の至りに候」と、奉公人稼ぎをも規制するようになる。
  領主側が恐れたのは、他領へ奉公稼ぎ→領内の百姓の不足→雇用人賃銭の高騰→雇用人を要する農業経営の存立危機→年貢の滞納化という一連の流れである。その意識が最も表われたのが、天保13年(1842)の触書だ。
 「近年男女とも、農作の奉公人少なく、自然高給に相なり、殊に機織下女と唱え候もの、別して過分の給金を取り候由、これまた余業に走り候ゆえの儀、本末取り失い候事に候。元来、百姓ども商い向き、当座の利潤をもって営み候町人とは格別の儀に候条、これらの儀よくよく弁別いたし、一途に農業精出めいめい持ち伝え候田畑に離れざる様専一に心掛くべく候」。
 裏を返せば、時代と共に商人的百姓が勢いづいていく証しである。
※参考文献・深谷克己著「百姓成立」。一部現代語訳・水喜  

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