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地主の末っ子

■美濃国西条村で代々庄屋を務める村最大の地主・権兵衛家に文化15年(1818)、末っ子の利三郎が生まれている。村内に百石の田畑があり、家族9人の他に下男3人、下女2人、馬1頭の構成である。
  兄の木多助は父の生存にもかかわらず19歳の若さで庄屋を継ぎ、33歳という若くない年齢で結婚。しかし、その妻は1年後に男子を産んで亡くなってしまう。
  利三郎には3人の姉がいた。長姉「きせ」はどこへも嫁がず41歳で生涯を終えている。病弱だったらしい。「こま」は21歳で近村へ嫁いだが、29歳で死没している。「ふみ」は26歳で城下町・加納の武家へ嫁いでいる。身分差のある結婚であるから、「ふみ」を一旦武家の養女へ出した上での婚姻となったはずだ。中級か下級武士で権兵衛家からの家計の援助を期待したのであろう。権兵衛家は何らかの利権が得られたのかもしれない。兄の木多助は遣り手だったようだ。

■末っ子利三郎は天保6年(1835)、18歳の時に近村の「後藤里伯」なる人物へ弟子入りする。医師を目指したようだ。この年は天保の危機年の前の年に当たる。ゆえに流行病が原因ではなく、身近な事柄から医師を志したと思われる。
  話は飛ぶ。最近知ったことだが、ノーベル賞の田中耕一氏は大学工学部へ進学が決まった折に、実母が産後1ヶ月で亡くなったことを、それまで実母と思っていた叔母に聞かされたという。以来、電気工学で医療に貢献したいと思うようになったとの話だ。田中氏は末っ子として育てられた。少しだが利三郎と似ているように思う。
  利三郎が医師を志した年に生まれた、地主の末っ子に土方歳三がいる。歳三が18歳の時には女の尻を追い駆けまわしていた。歳三のほうがこの年頃に似つかわしい振る舞いだと思う。裏を返せば利三郎の意欲がいかに強固で素晴らしいかである。利三郎は23歳で京都へ本格修業に、25歳で帰村し3年後に分家して西条村の医師となる。
参照文献・速水融「江戸の農民生活史」 

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