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美濃国西条村・伊蔵の生涯2

■享和3年(1803)、伊蔵は小作農・忠次郎の次男として生まれる。父の忠次郎は西条村生まれで、24歳の時に1歳年下の近村の娘と結婚している。伊蔵が2歳の時に大垣の武家へ奉公へ出る。いまで言えば単身赴任の形だったが、その2年後に亡くなってしまう。西条村で家を守っていた伊蔵の母は35歳であった。後家となった母はこの家に残り、夫の死後5年にして同村出身の男と再婚するが3年で離婚。が、彼女は亡くなる65歳まで西条村の婚家で、後家ながら戸主として留まっている。
 こうしたいわば不運な家庭環境の中で伊蔵は育つわけだが、13歳の時に父親と同じように大垣の武家へ奉公へ出る。だが奉公先と縁がなかったのか、3年後の16歳の時に家へ戻る。20歳まで家にいたが、隣村へ奉公へ出る。こちらでは縁があったのか、伊蔵は25歳になると結婚するのである。奉公先の村の娘と結婚し、奉公は解消して小作農として一家を構えるのだった。

■伊蔵夫婦に間もなく長男・浅次郎が生まれる。束の間の喜びだったようで、妻は産後の肥立ちが良くなかったらしく亡くなってしまう。この時代こうした例が多く、また乳幼児の死亡率も高かった。伊蔵は乳呑み児をかかえるヤモメとなったのであるが、どうも伊蔵は女性から同情されるタイプだったようだ。宗門改帳においては、伊蔵は息子の浅次郎が16歳になるまでヤモメ暮らしなのだが、天保12年(1841)生まれの「ゆみ」、同14年生まれの「きし」という女子が改帳に登場するのである。母親は改帳に記載されていない。「きし」が誕生した折の伊蔵の歳は、満で計算しても40だ。骨太な男だったようだ。
 「きし」誕生後1年して伊蔵は、近村の与右エ門娘を嫁にする。再婚妻との間に伊蔵は7人の子供をもうけた。弘化2年(1845)に女子、その1年後に女子、その3年後に男子、その2年後に男子、その・・・、文久3年(1863)の女子を留めに、つまり伊蔵は61歳、妻48歳までお疲れさんだったのである。子供の数10人、全員成長している。貧乏人の子沢山というが「間引き」の様子はなく、10人の子供の内5人は出稼に出ず家に留まっている。伊蔵はデクノボウな水呑みではなく、腕のいい職人か才覚のある商売人でもあったと思われる
。(参照文献・速水融著「江戸の農民生活史」)

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