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美濃国西条村・伊蔵の生涯1

■江戸時代の人口調査には、人別改めと宗門改めがあるが都市と農村部では調査法が異なる。都市・江戸については後々に述べることにして、二つの改め方法の起源と内容について簡単に書いておこう。人別改めは戦国時代からあり、戦時に徴発可能な領内における人手と家畜数を調べている。江戸期以前は家単位の調査、以後は人単位となったが定期的なものではなく、また幕府が人別改めを命令したわけでもなかった。それゆえに残存するのは江戸の前期のものが多い。
 一方の宗門改めは宣教師追放・禁教が本格化した寛永11年(1634)から幕府領、私領(大名・旗本領 )で義務付けられている。原則としては毎年の調査である。内容は各世帯を構成する家族や奉公人の所属する寺院、宗派、世帯内の地位、男女別合計数など。また、宗門改帳には住民台帳式と戸籍簿式があるという(歴史民勢学の速水融氏)。調査時にその地に住んでいるかいないか。幕府領がほぼ現住地主義で大名・旗本領が本籍地主義のものが多い。

■江戸時代の村外への奉公は「出稼」と記載されている。なぜ「出稼」か。他領への永久的な移動は法令上禁止されていたから一時的な移動、数年すれば帰るという前提での「出稼」で、禁令の網をくぐり抜けたのである。そこには領主側の「おめこぼし」があったはずだ。奉公に出た息子や娘の給金は、原則として親元へ雇い主側から送金された時代であり、結果的には領内へお金が落ちるのである。
 この「出稼」の記載がある宗門改帳は、現住地の住民台帳式のほうで、これから紹介する小作農すなわち水呑み百姓・伊蔵の生まれた美濃国安八郡西条村(現・岐阜県安八郡輪之内町)は、幕府領でこの方式である。正確にいうと大垣藩の「預かり地」。預かり地とは、本来は幕府勘定奉行配下の代官が支配するところを、何らかの理由により大名に行政を委託した所領のことを指す。参考までに、大垣藩戸田氏は10万石の譜代大名、預かり地は7万石近くを有している。大垣藩領は本籍地主義、預かり地は現住地主義だった。

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