百姓は耕作専一民ではない
■例として江戸時代の平均的な百姓農家を出したいが、それは難しい。しかし、寛政3年(1791)から同6年までかけて上野国高崎藩の郡奉行が纏めた「地方凡例録」に、高崎周辺の標準的な百姓農家の事例がある(歴史学者・深谷克己氏の調査研究)。家族5人(耕作働き3人、老幼2人)、馬はなし、二毛作ができる水田4反・畑1反5畝(1反=300坪、1畝=30坪)の百姓農家がそれである。米の収穫は6石7斗2升(1石=10斗、1斗=10升、1升=10合)、裏作は麦で6石4斗、畑も麦で2石4斗、次の麦仕付けまでに大豆を5畝作り5斗、稗は3畝で7斗、粟は3畝で6斗、小豆は1畝で1斗2升、芋は2畝で3石2斗、残りの畑1畝に菜、大根、茄子、大角豆など。家族労働が中心だが、人夫を雇い賃借りした馬で「掻きならし」を行っている。肥料は自給の他、干鰯(ほしか)を購入している。 総収入は15両3分2朱と永39文(1両=4分、1分=4朱、永は銅貨の永楽銭で1000文=寛永通宝銭4000文=1両、1000文=1貫文。以上は公定相場だが実際は変動相場だった)。この中から年貢・諸雑費と生活費を除くと1両1分・永37文の赤字となるのである。
■当時の金銭感覚が判りにくいと思う。4文銭が鋳造された明和5年(1768)を境にして、値段が4文の串団子1本の団子の数が5個から4個に変わっいく。後々のこともあるので、とりあえずこれを覚えておいてほしい。鬼平の時代なら串団子1本4個刺しが銭4文、黄門の時代は串団子1本5個刺しが銭4文となる。なお、明和期は水喜が最も好きな平賀源内が生きた時代だ。 さて、百姓は赤字をどのように凌いだのか、ここが肝要である。高崎藩内の村々では農作の間や夜間に、蚕を飼ったり煙草を作ったり縞木綿を織ったり莚を織ったり縄を編んだり、山村なら材木を伐り出し炭を焼いたり薪を割ったり、川沿いの村なら漁労となり、城下町や宿場町に近ければ野菜を作って売ったりと、また事例の百姓農家の村には、馬鍬(まんが)による掻きならし作業を一日300文でやる者や、稲作・麦作を1日100文でやる者がいた。
■こうした農間諸稼ぎを、積極的に勧める農学者も登場してくる。大蔵永常は「藺(いぐさ)をよく作りたるに競ぶれば、稲は只米の価のみにて余分の利なし」。稲を米にするのに技術はいらず米価も大きく変動しないが、イグサを莚に織りあげるのは加工であり付加価値が高い、と述べるのである。 農学者・大蔵永常は、明和5年に豊後国の百姓農家に生まれている。祖父は換金作物である綿作によく通じていた百姓、父は農間に櫨(はぜ)の木の実を搾る製蝋所で稼ぐ職人兼百姓だった。百姓生活の勘所をよく心得ていたようである。百姓は耕作専一の民ではなかった。諸稼ぎをせざるを得ない環境ではあったが、商人・職人への派生予備軍でもあったと言える。次回は、宗門改帳から見える百姓の生涯について書くことにする。 |