百姓の成立
■島原・天草一揆において蜂起の波及を食い止めるために、肥後藩が発した法令がある。「一、百姓ににあわざる天下物語仕る間敷候事(まじきそうろうこと)」。その昔、「兵」と「農」は分離していなかったのに、武士が偉そうに命じたのである。
江戸時代は人口の85lが百姓だった。 「百姓」なる呼称は、聖徳太子の憲法17条の中で初めて登場するという(歴史学者・深谷克己氏)。律令制社会において百姓は、課役としての兵役(防人など)を自前で武装する負担者だった。武士が登場する以前の話である。中世は武士が兵役を担い百姓は陣屋の人夫役となったが、戦国時代では兵力増強の必要から百姓は年貢地の一部を免除され、知行地として与えられ兵役を課された。
その後は刀狩令によって、「百姓は農具さへもち、耕作専に仕候へハ(ママ)、子々孫々まで長久に候」と規定される。
■「兵」と「農」は、支配する側とされる側になったわけだ。徳川幕府は寛永年間(1624-1643)に百姓の衣類、乗り物、家作、食べ物などに関する法令を連発する。視覚による分離である。
また、村落共同体が中世以来持っていた自治・自警の自律性が、幕府・領主に奪われていく。「所払い」という追放刑がある。この刑罰執行が村落共同体では禁止され、幕藩=公的権力機関へ移行していく。村落の中で勝手に追放することは、「自在な移動」と公的には見なしたのであろう。これは耕作人の減少につながることになる。
さて、このように眺めてくると江戸時代の百姓は身分の固定、土地への緊縛、衣食住もままならず、年貢と課役(主に人足仕事)に苦しみ面白くもない一生を送ったんだなあ、と考えてしまいがちだがちょっと待ってもらいたい。 |