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山間を切り拓いた家 

■新田開発によって野獣を鉄砲で撃ち殺しながら耕地を広げていったわけだが、新田の開発主体となったのは土豪と浪人たちだった(元禄以後は豪商)。では、土豪とは何者か。北国街道と中山道、佐久甲州街道が交錯する西南に「五郎兵衛新田」という開発地がある。開発者は市川五郎兵衛、50年近い年月を費やして延宝五年(1677)に水田53町、畑22町(1町=3000坪)と成っている。市川五郎兵衛の先祖は上州(群馬県)甘楽(かんら)郡の小豪族だったという(歴史学者・大石慎三郎氏の調査報告 )。
  市川氏が信州佐久地域に知行地を得るのは、甲斐武田氏の武将時代、それ以前は関東管領・山内上杉家の武将だった上州宮崎城主の小幡氏に属していた。武田氏が滅亡すると佐久の知行地は、織田信長の属将・滝川一益に没収されるが、上州の本拠地は北条→徳川と領主の変遷にもかかわらず安堵される。この時代の祖先は目先が利く武将ではなく、「愚直」な男だったらしい。徳川家康からの再三の仕官の勧めを断わり、在地土豪=有力農民としての道を選ぶのである。

■上州甘楽で暢気に暮らすのかと思いきや、元和九年(1623) 佐久に入り、3年後に小諸城主松平忠憲から開発許可状をもらう。新田開発の根本は「水」である。家康からの仕官を断わった本人か倅かは知らぬが、用水路開鑿という大難事に挑むのだった。千曲川支流の鹿曲川から9765間(約18`)の水路を拓く。山腹の岩間を抜いた箇所が3`余り、地面を掘り下げ両側に土手を築いた箇所14`、残りは盛り土をしてその上に溝を造ったものだった。水が洩れないようにするには技術を要する。有名な箱根用水より40年前にできているから大変な作業であったろう。 しかも費用は開発者負担が原則で、上州で経営する砥石山の権利の半分を江戸の町人へ売った上に、他から1400両の金を借りている。
  市川五郎兵衛はこの新田開発によって何を得たのか。年貢諸役が賦課されない除地として155石を受けた他に、用水管理権、名主役、そして「五郎兵衛新田」なる冠付きの名誉である。家康の仕官を受け入れれば、おそらく千石以上の旗本になれたはずである。名利を求めたのではない。市川家は「愚直」の系譜なのだろうか。何に対して帰属意識を抱いていたのだろう。

  江戸時代には、こんな冒険的な家がいくつかある。折々に紹介していくが、次回は「百姓の成立」について書きたい。地味だが江戸の根本を押さえておくと、よく知られた事件や人物がひときわ鮮やかに浮かび上がってくる、と思うからである。

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