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生類憐れみの令とは? 

■深川・木場の旦那衆が密かに逆らった(座敷鷹のメニュー参照)、「生類憐れみの令」はかなり一般に誤解されている。これと関連するが、江戸時代は「鉄砲抜きの天下泰平」なる言説も誤りである。
  令の初発年は(二説あるが)、貞享2年(1685)の「みだりに鳥銃を放つことを禁じ、犯人を逮捕した者、訴え出た者には賞金を与える」からである。賞金は切支丹密告と同程度(銀200枚)だから生半可ではない。この条令は関東諸国を対象に触れられたものだが、鳥を鉄砲で撃つ者がかなりいたことを窺わせる。
  秀吉による刀狩令は、武器類が村方にあってはならないとの趣旨であった。その後に続く徳川幕府はこれを一層強化したとみるのが通説だが、貞享4年(1687)に将軍綱吉は、在村鉄砲の取締令として諸国鉄砲改めを命じ、これ以後本格化していくのである。村方にどれほど鉄砲があったのか。たとえば、仙台藩3984筒、松本藩1040筒、紀州藩8013筒、長州藩4158筒(歴史学者・塚本学氏の調査集計による)。

 ■なぜこれほどの数の鉄砲が、この時代にあったのか。鉄砲鍛冶で有名な堺と国友(現・滋賀県長浜市)では、江戸時代を通じて生産量の急激な落ち込みは見られず、かえって村方での需要は増加傾向にある。
  種明かしは、新田開発。寛文(1661-1672)から元禄(1688-1703) にかけての時期、多くの大名が朱印高(拝領高)よりも大きな内高を領有していく。つまり、幕府に内密で新田を開発していたわけで、鳥獣たちが安穏に棲み暮らしている原林山野を、畑作稲作のできる耕地へと拡大していったわけである。食料を得る地を奪われた鳥獣たちは、人が耕作した田畑を荒らすことで生き延びようとするだろう。村方の鉄砲需要の増大はここにあった。
  生類憐れみの令は、将軍綱吉の死の直後に廃止される。同時に諸国鉄砲改め令もザル法化していく。生類を憐れめ、と言われて正面切って反対するのは難しい。大義名分だからだ。鉄砲改め強行は反感を買うが、大義名分はそれを包み込む。ただし、蚊や魚まで対象に広げたのは確かに行き過ぎであった。

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