江戸の農民30                                          江戸の農民TOP  江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

一揆について1

■岡山藩3代藩主池田光政の言葉に、「上様は日本国中の人民を天より預かり成され、国主は一国の人民を上様より預奉る」というものがある。この言葉は将軍・大名の力関係を説明する最適なものとして取り上げられることが多いが、ここでは百姓というものがどのように捉えられていたのかを示す材料として挙げた次第だ。
 池田光政は名君といわれる大名である。が、凡庸な領主であったとしても、濃淡の違いはあれ百姓の捉え方は上記のような感覚ではなかったかと思う。
 従って、百姓から年貢はしっかり皆済させるが、百姓が豪雨・洪水・旱魃などで作物の出来が悪く難渋する時は、年貢皆済できるよう撫育していこうとの考え方が、儒教思想のなかで濃淡はあれ生じてくる。この考え方を「撫民(ぶみん)といい、頭の弱い領主は別としても、江戸期を通じて支配者側の政策努力として反映されたようである。

■撫民政策として「御救(おすくい)がある。耕作生産へのテコ入れとして「種貸」、生活へのテコ入れとして「夫食貸(ぶじきかし)、年貢の軽減の三つがそれだった。夫食には五穀の他に芋や蒟蒻(こんにゃく)も入った。
 撫民思想と実際の政策には乖離があるものである。享保期(1716-1735)における
幕領の夫食貸令は、60歳以上と15歳以下は対象から除外、男子は1日玄米2合、麦の場合は1日4合、女子はその半分。現物ではなく代金渡しだった。
 無料ではなかった。無利息だが、翌年から5年の内に返済が原則である。麦収穫が待てる夏の夫食はなかった。
 年貢の例えば半減は幕末の一揆に見られるが、高鍋藩(秋月家2万7000石)の元禄15年12月の記録にも見られ、幕末に限ったことではなかった。
 
種貸は凶年に籾種・麦種を願い出ると貸与され、1反(300坪)あたり籾なら6、7升(1升は10合)、麦は1斗(1斗は10升)で、利息3割での貸与だった。しかし、市場(貨幣)経済の拡大浸透につれ、当初の冬相場で貸し夏相場で百姓が返す原則は、領主側に損との考えが生じたことから崩れ始め、百姓には有難みの薄い御救となっていく。そうでなくても利息3割は御救とはいえない。
※参考資料:「百姓成立」(深谷克己 塙書房)など

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