一揆について1、その後
※「一揆について1」を書いてから4年半以上が経つ。従って、当時「一揆について2」に何を書こうと考えていたのか、さっぱり見当が付かない。しかし、「一揆について1」で終わっているのがあまりに中途半端過ぎて、この4年半の間は気になって仕方がなかった。何とか終わらせなければと思っていたが、この4年半の間にWeb上には百姓一揆関係の記事が多くなり、似たようなものを書いてもしょうがないとの思いも募った。 なかなか書けなかったが、以下になんとか纏め得た次第である。
■文政10年(1827)4月の幕府触書に、「村々之内ニ公事師(くじし)」と唱える者が「出入之腰押(こしおし)等いたし、村方を騒立候」とある。村々に公事師と称する者が、揉(も)め事を訴訟事にしようと村に遣って来て騒ぎ立てる、というのである。 公事師とは、訴訟や裁判のために地方から出て来た百姓を宿泊させる公事宿の主人を指す。公事宿は江戸に多くあったが、大坂・京都・各城下町・郡代及び代官の陣屋の近くなどにもあった。公事宿は株仲間として公認され、江戸なら町奉行所に営業税として冥加(みょうが)銀を納めていた。 公事人の依頼により訴状を作成したり、訴訟手続きの代行、奉行所の命令による差し紙(召喚状)の送達などを行うのだが、取り扱うのは民事訴訟・裁判の出入物のみで、刑事訴訟・裁判の吟味物は扱えなかった。 上記の触書は、村々を歩けば訴訟事になりそうな揉め事がたくさんあったという証しであり、訴訟事に関わる百姓が結構いたことも示し、村々のなかに口達者な者を育てていったであろうと推測させる。 19世紀以前の百姓一揆の頭取は村役人層の出身だったが、以後は中下層から輩出してくるといわれる。つまり、村々に口達者が多くなる頃に重なるのである。 |