江戸の農民29                                          江戸の農民TOP  江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

焚石

■塩田の経営で嵩むのが燃料代だった。鹹水(かんすい 濃い塩水)を釜で煮詰める時に多量の薪や松葉を使用する。1町歩(約3000坪 江戸時代で最大の塩田は2町歩)の塩田に76町歩の松林が必要だったと言われる。
 明和期(1764-1771)から塩田増加により価格が下落、一方の燃料代は高くなった。打開策として石炭が使用されるようになる。十州塩田(瀬戸内海に偏在する塩田 全国製塩高の90lを占める)に普及するのが寛政期(1789-1800)。魁となったのは周防(山口県)青江浜の江村新右衛門が、安永7年(1778)豊前国(福岡・大分県)で石炭焚きを習って帰ってきてからと言う。筑前(福岡県)や豊前では、薪の代用品として石炭が元禄期(1688-1703)から小作農の家事用燃料として使用されていた。
 寛政期に製塩需要で増加したため、当時の福岡藩黒田家の郡奉行は「地脈尽く絶え地底永く虚耗いたす」と、稲麦に被害が及ぶので石炭採掘の減少を唱えている。

■筑前・豊前国に隣接する肥前国(佐賀県)でも、富裕町人が多額の運上金を積んで藩に石炭採掘を願い上げても地元の百姓たちが反対すると許可しなかった。ところが、佐賀藩鍋島家領多久(佐賀県多久市)では安政期(1854-1859)になると、藩が直営で積極的に石炭採掘に乗り出してくる。
 「阿片戦争は多数英艦の集合とともに石炭の需用を生じたりしが殊に英艦の長崎の唐船蘭船より盛に炭塊を買ひ入れたりしは壬寅癸卯年間なり(「鍋島直正公傳」)と、佐賀を幕末雄藩へ導いた第10代藩主が回想している。壬寅(みずのえとら)は天保13年(1842)、癸卯(みずのとう)は翌年。長崎で米英仏露との自由貿易が始まるのが安政6年(1859)。間接ではあるが石炭貿易は早かったわけだ。
 佐賀藩は石炭貿易で藩財政を豊かにするが、そのため薩長の掲げる
「攘夷」の大義に乗り遅れる。しかし、この大義がなぜか消失する明治になって存在感を増すのであった。
※参考文献・安藤精一著「近世公害史の研究」 

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