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草生水

■日本書紀の昔から「燃ゆる水」として石油の存在は知られていた。越の国から近江(滋賀県)の大津宮に献上した記録が残っているそうである。この「燃ゆる水」、いつの頃からかその臭さから「草生水」(くそうず)と呼ばれるようになる。
 「燃ゆる水」を献上した「越の国」は、現在の新潟県三島郡出雲崎周辺であり、日本の石油発祥の地とされるのも出雲崎尼瀬。明治初年、この地に湧く原油に目を付けたのが、山岡鉄舟の盟友・石坂周造。「石油」の造語も彼によると言う。彼は石油王と呼ばれている。
 しかし気になるのは、石坂が登場するまで石油が事業化されなかったこと。江戸時代の出雲崎は幕領で佐渡の金銀の荷揚げ湊でもあった。燈油として地元で使用したであろうに。燈油としては菜種油や綿実油、荏胡麻油などの他に魚油があった。魚油は安かったが臭くて普及しなかった。やはり臭気が原因か。

■出羽国荒瀬郷草津村(鳥海山の南麓、現在の山形県飽海郡八幡町草津)の山中から石油が湧き出ていた。他村の者が試掘を宝暦3年(1753)に願い出て、「燈油に相成り候はば世の中の重宝」とこれを許される。だが、長雨が続き雷雨も度重なり稲の出来が悪かった。草津村では、「油取り候故に荒れ続く」と考え反対し、試掘は中止となった。
 寛政9年(1797)にも試掘の願い出があり許可されたが、草津村百姓惣連判で宝暦3年のように難渋すると反対した。加えて、鳥海山麓は石油はもちろん少々の薬草を採っても天候に障る地域であり、「薬草取追払人足」を年々出していると訴え、試掘を中止させたのだった。
 鳥海山は江戸時代に4回噴火している。万治2年(1659)、元文5年(1740)、享和元年(1801)から文化元年(1804)まで、文政4年(1821)の4回。「燃ゆる水」は村人の迷信を生んだであろうし、その臭気は一層迷信を強化したと思われる。「臭気と迷信」、現代でも使い方次第では武器になる?

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