江戸の農民27                                          江戸の農民TOP  江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

月飾り

■皆さん、新年おめでとうございます。今年もどうぞご贔屓に!今回は農村から離れ、江戸城の正月の一風景を紹介することにしたい。
 江戸城は外郭と内郭から成る。外郭は外堀内で、神田川(井の頭池が源流)が隅田川と合流する浅草橋近辺から小石川方面、さらに牛込、市谷、四谷、赤坂、赤坂では溜池を利用し、虎ノ門、幸橋へとつながり、やがて二筋に分かれ、一筋は芝口から御浜御殿(現 浜離宮公園)へ、もう一筋は数寄屋橋、鍛冶橋、一ッ橋から雉子橋へ向かっている。
 内郭は内堀の内側で、本丸(二ノ丸、三ノ丸を含む)、西丸(紅葉山を含む)
、北丸、吹上御庭があった。西丸は将軍職を隠退した大御所や将軍世嗣が住み、北丸は米蔵や武家屋敷があったが、吉宗が御三卿(田安、清水、一橋)を創設した際に田安、清水両家の邸宅となった。
 内堀と外堀に架けられた城門を見附(見張所の意味)と呼ぶが、これが92門あり、新年には松飾りを付けた。

■この松飾りには謂われがある。家康の生涯で唯一の負け戦とされるのが三方ヶ原(現 浜松市近辺)の合戦。元亀3年(1572)12月、武田軍に叩きのめされた家康は命からがら這々の体で浜松城へ逃げ帰った。追って来た武田軍は浜松城を包囲して、新年を迎える。新年の挨拶代わりに武田軍の武将の一人が、嫌味な発句を作って浜松城内へ送った。
 「松かれて竹たぐいなきあした哉(かな)

 松は浜松の松、竹は武田を掛けている。徳川滅亡、武田興隆というわけだ。これを耳にした家康は正月から縁起でもないと苦り切った。控えていた知恵者の酒井忠次が当意即妙に、「松かれで武田首なきあした哉」の読み違えだと大音声で言った。
 やがて武田軍は引き上げ、以後家康の武運が開けていく。この折の浜松城の松飾りが、竹の頭を鋭く斜めに切りその根元に青々とした松を添えた、現代の門松の原型のようなものだった。

<<前     次>>