石灰と桑
■江戸時代の石灰は主に漆喰として建築材料に使われていた。石灰は竈を築いて原石を焼き立てて白色粉末にしていた。野州(現・栃木)石灰は江戸城修築や日光東照宮造営などを契機に、幕府の保護・統制を受け御用石灰として焼き立てられていた。 野州の隣りの上州(現・群馬)は生糸の生産で知られる。桐生54ヵ村は家康が関東入国した時に天領とされ、慶長3年(1598)の検地では桑が年貢の対象として高に結ばれている。慶長5年の関が原の戦いでは旗絹を献上し、以後吉例として毎年献上するようになってもいる。 天保9年(1838)に上州新田郡阿左美村の百姓と同郡鹿川村・本町村などの百姓の間で、石灰と桑葉に関する「差上申済口証文之事」という覚書が取り交わされている。江戸初期は田畑の畦や川沿いの荒地などに植えられていた桑が、養蚕規模の拡大により桑専用の畑が出来たことから生起したものである。
■阿左美村に国瑞寺山という石灰石を採取する山があり、原石を掘削する際にも粉がかなり散ったらしく、近くの畑に植えてある桑の葉に粉が降り掛かるので、原石の掘削と焼き立ての期間を限定し、「八十八夜より半夏までは」作業中止と取り決めたのであった。※八十八夜は陰暦4月初め、半夏は八十八夜から60日後。 さらに石灰荷物を送るにあたってもこの期間は休みとするが、八十八夜の翌日から3日、半夏前の7日の計10日間は荷物に莚を掛けることとしている。送れなかった石灰も送る前の石灰も莚を掛け、この期間は粉を飛ばさないようにしろという意味であろう。 60日間は蚕が孵化してから繭が出来上がるまでの生育期間であるが、江戸時代の養蚕は桑葉の発芽生長に蚕の発育を温度調節によって合わせていた(催青)。養蚕は桑葉が第一だったわけだ。 石灰が土壌改良材として認識されるのは明治以降のようである。 |