江戸の農民25                                          江戸の農民TOP  江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

コトコトコットン

■「森の水車」という歌がある。水車の回る音はコトコトコットン、ファミレドシドレミファと陽気な感じだ。この歌が作られた昭和10年代は、水車は周囲の風景に溶け込んでのどかなものだったのであろう。水車の利用は古代からあり、一般に普及するのは江戸中期からと言われている。
 普及にともない周辺農業の支障となることが多かった。高崎藩の郡奉行だった大石久敬は寛政3年(1791)に、「水車の事、新規の出願を採り立てるには下流の村の用水への差し支えは言うに及ばず、上流隣村の支障なども念入りに調べ、上下流近隣の障りがなければ許可するであろう(現代語訳・水喜)と述べている。
 支障となる水車は灌漑用のものではなく、精米や精粉、製油などに利用された動力用として設置されたものだった。よって大仕掛けであり、外輪が2丈5尺(約7.5b)余りで杵5本というものもあった。こんな水車を回すのだから、川の流れがのどかではお話にならなかった。

■天明2年(1782)、武蔵国豊島郡関村(現・東京都練馬区)
、上石神井村などが、多摩郡田無村の名主半兵衛が設置した水車の水のせいで田圃が水腐れになったと、幕府に水車撤廃の訴えをした。半兵衛は玉川上水の分水口から樋で大量の水を引き入れて水車を回していたらしい。その余り水が関村の溜池に落ち込んで増水し、村々の稲が水腐れの状態になったというのである。
 これに対して半兵衛は、水車設置で増水することはあり得ない、単なる言い掛かりだと反論。村々は「近年所々水車出来玉川通りより夥しく水引き入れ」て被害が出ると述べていることから、半兵衛は槍玉にあげられた形であったようだ。訴訟の結果は村々の総代二人に入牢が命ぜられ、半兵衛は樋を新しいものに替え漏水による増水がないようにすることで一件落着。
 関村では享和3年(1803)にも水車訴訟があった。この時は水車の振動で土砂崩れが生じ下流の用水路の流れが悪くなったというもの。結果は浚渫費用として毎年金ニ両二分の支払いが水車側に命ぜられている。

<<前     次>>