塵芥難儀致候
■安永2年(1773)、京都の壬生村・中堂寺村から「井出筋堀川筋の近辺の町々より、近年おびただしく塵芥を捨てるため用水が滞ってしまい難儀をしている」(現代語訳・水喜
以下同)と町奉行所に訴願があった。河川から取り水する農業用水が流れて来なくなったのは、京都の町中で暮らす町人たちが捨てるゴミの山が原因であった。 江戸はリサイクル都市だったと言われるが、水路があると人間は自然と投げ捨てるもののようだ。江戸の町のゴミ最終処分場は明暦元年(1655)から隅田川河口の永代浦、元禄9年(1696)からは永代島新田・砂田新田(現・江東区)に移り埋め立てて新田造成へとなる。 京都の場合は元禄8年(1695)に公定のゴミ捨て場として七ヵ所の設置をしている。それ以前は賀茂川へ捨てていた。江戸も永代浦の前は隅田川に捨てていたものと思われる。元禄8、9年以前の江戸時代の大都市は、「ゴミは川から海へ流そう」だったわけだ。
■さて、京都のゴミ捨て七ヵ所とは、室町頭小山口明地、今出川口川東長徳寺北川端、二条口川東頂妙寺北川端、七条出屋敷木津屋橋東少将藪内、同所木津屋橋西祐光寺藪内、三条通西土手東際、聚楽天秤堀之西新町之東裏。 このように定めたが宝永4年(1707)にみだりに他へ捨ててはならぬとの触書が達せられ、正徳2年(1712)には堀川筋に捨てる者がおり川筋の町々に掃除をするように命じ、2年後には高瀬川の両川端を埋めてまでゴミを捨てる者が出現し、禁止の触れが出ている。 享保7年(1722)に、「町々の溝筋から悪水が抜けず、掃除をしないため往還に水が溢れてくる」という始末。明和6年(1769)は、「洛中町方所々下水溝筋埋り雨天之節は往来道筋へ水溢往来之差し支え」となり、水が溢れた町の家主・町役は吟味の上で処罰されることになった。 しかし、安永2年には上記農業用水の件があり、その後も触書が出されていく。御所のある京都でこの有り様。他は推して知るべし、か。 ※参考文献・安藤精一著「近世公害史の研究」 |