江戸の農民23                                          江戸の農民TOP  江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

伝説の効力

■助郷に出た人馬に出す足し銭が、助郷村の村入用(村経費)の三割から四割を占めるのが普通だった。将軍上洛に伴なう幕使の通行がある年などは七割以上ともなったと言う。
  助郷村と宿駅は人馬負担の点では利害を共にするため、その軽減を願い出る際は共闘したが、人馬の割り振りの点では衝突した。宿駅では宿人馬が残っているのに助郷村に割り当てたり、付けにくい荷物を村の馬に付けたりした。
  宿駅に不正がないように助郷惣代が宿の問屋場に詰めて監視するようになっても、その助郷惣代が宿役人と馴れ合って不正を働くなど、いつの世も人間の欲は飽くことがない。
  助郷村に指定されることは街道筋の村々にとって極めて迷惑なことだったが、街道筋沿いの村にとっては逃れられない課役だった。しかし、次のような頭のいい運に恵まれた村もあった。

■東海道沿いの村に大浜茶屋村(現・安城市)があった。天保14年(1843)、この村を助郷に指定するために幕府役人が見分に訪れた際に、村の庄屋が助郷役負担の前例がないと書上訴願している。
  助郷の課役を免れるこの書上に記されたのは、延宝年間(1673-1680)に村では助郷反対一揆があり、当時庄屋を務めていた助太夫なる者が、水田のない畑作のみの貧村なので助郷免除を願ったところ、咎めを受け死罪となり、その後村の困窮状態を認めてもらい助郷役の沙汰は止んで今日に至っている、と言うものであった。
  この書上で大浜茶屋は助郷役を免除され、文久2年(1862)と慶応2年(1866)にも同様の趣旨の書上で免除されている。しかし、歴史学の塚本学氏の調査によると、延宝年間に庄屋・助太夫が死んでいる記録はあるが、大浜茶屋村の助郷反対一揆の史実は確認できなかったと言う。助郷云々が村の記録に現われるのは天保14年が最初。創られた伝承だったのである。
※参考文献・塚本学著「小さな歴史と大きな歴史」 

<<前     次>>