宿駅の助役
■東海道の宿駅に課された1日伝馬100疋の無賃提供であるが、これは1疋の馬が2度働けば2疋と数えていたのであって、各宿が100疋の馬を常備していたのではない。人足も同様で次の駅まで運び、戻ってきて再び次の駅まで運べば1人でも2人と数えた。
1日100疋以上になった場合は、幕府が決めた御定(おさだめ)賃銭がもらえ、幕府公用以外の旅行者とは交渉による相対(あいたい)賃銭となっていた。しかし、幕府の御定賃銭は一般の賃銭に比べはるかに低額だったと言う。
そのため、幕府公用旅行者を優先する義務がある宿駅では、一般の賃銭収入では不足分を補えず人馬の数が減少していった。例えば東海道水口宿は寛永12年(1635)に馬81疋あったのが寛永20年には32疋。この間14年に天草・島原の乱があったとはいえ、10年足らずで半数以下の激減である。
■宿駅の人馬が不足した場合、宿の近在の村々から人馬を雇い上げていた。制度的なものではなかったが元禄7年(1689)になると、東海道と中山道の各宿に助人馬を出す村々が割り当てられ、それを助郷(すけごう)と呼ぶようになった。 助郷は村高100石につき2人・2疋の人馬役負担とし、定助(じょうすけ)と大助があった。定助の村で不足の時に大助の村が人馬を出す決まりだった。また、各宿駅ごとに助郷が割り当てられたのではなく、2宿〜4宿に対して同じ助郷が当てられている。山間の地が多い中山道の宿は近くに助郷を求めにくいため、そうしたケースが多く助郷の人馬は遠距離を運ばなければならなかった。 助郷の人馬は宿駅の無賃人馬が不足した場合だけ課されたので御定賃銭を得ていたことになるが、公用旅行者は夏から秋にかけての農繁期が多く、賃銭は安いときているから利益とはならず、宿駅との往復に1日2日要してもこれは無償だったため、助郷の村では人馬役に出た者へ足し銭を与えなければならなかったのである。 |