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宿民は百姓

■「伝馬役」というものがあった。公用旅行者や公用荷物を運ぶために馬と人足を提供すべき義務。この義務を課せられたところを宿(しゅく)あるいは宿駅と呼んだ。
  東海道なら江戸・京都間で53、中山道は板橋から守山まで67の宿があった。宿間の平均距離は東海道が2里11町弱(約9`)、中山道は2里32町(約11`)
。江戸時代になってから設けられた宿もあるが、東海道の宿の多くは鎌倉時代、中山道は戦国時代以来のものである。
  伝馬役は無賃であった。公用とは徳川幕府の用であり、宿から宿へ荷物を継ぎ送る伝馬として提供する馬と人足は無料奉仕だった。その代わり宿の地子(地代)は免除されていた。よって宿の収入は、諸大名の参勤交代や商人荷物、庶民の寺社詣でなどによる往来だった。
  しかし、慶長6年(1601)には東海道の各宿1日伝馬36疋(ひき、匹と同じ意味)の課役が寛永10年(1633)頃になると100疋となり、時代が下るにつれ宿駅経営は厳しくなっていった。

■宿駅は城下町の場合もあるが、多くは村である。宿駅の宿民は百姓だった。百姓たちは1年に一度寄り合いを開き、その年の馬役と歩(かち、人足)役、問屋場の諸役を決めた。問屋場とは人馬の継ぎ送り一切をつかさどるところで、名主が宿役人「問屋」として差配するのが一般的だった。また、問屋は本陣を経営することも多かった。
  問屋の補佐役に「年寄」が数人おり、これは組頭が多く務めた。年寄の下に「帳付」と「馬指」がおり、帳付は人馬の出入りや賃銭などを日〆帳に記し、馬指は荷物に応じて馬士や人足へ指図をする役である。
  伝馬役は表通りに面した屋敷を所持している者たちへ課された。負担の多寡は表間口に応じているが、宿駅の中央と端では受益に差が生じるとして、宿場の位置も考慮に入れる宿駅もあった。
  寄り合いを1年ごとに開くのは負担の均一化のため。歩役は馬役の半分の負担で済み、帳付と馬指は幕府の威光を笠に横暴非道の武家や、雲助などと呼ばれる無宿風体の人足を相手にしなければならなかったからである。
※参考文献「宿駅」(児玉幸多 至文堂) 

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