山村の塩気
■飢饉の時の必需品は塩であった。
木の皮や根、壁の土まで喰って生き延びるには、病気の併発を防ぐとされた塩は欠かせない食品だった。ことに山間地や内陸では塩の付く地名や塩にかかわる諺もあり、また、「清めの塩」といった言葉は今でも生きており、単なる調味料の域を超越したものと言える。 信州高遠に「鰍沢が遠い」という諺がある。歴史学の北原進氏が信州をフィールドワークしている折に、野沢菜の漬け物をお茶うけに土地の古老が、「これは鰍沢が遠いな」とボソリと言ったそうである。30年ほど前の話だ。意味は「塩気がたりない」。減塩が常識のようになった感のある現在だが、野沢菜はかなりショッパイ。昔は一層塩気があったのだろう。
高遠は甲州鰍沢と直線距離にして50`ほどだが、その間に南アルプスが聳え立っている。これが原因で江戸時代の竹原塩(広島産の上塩)と地塩(東海産の並塩)は遠回りせざるを得なかった。
■竹原塩と地塩は清水湊に入る。買い付けられた塩は東海道蒲原宿に回され、馬背で岩淵村まで運ばれる。ここから急流の難所の多い富士川を舟運で遡り、甲州の鰍沢、青柳、黒沢の三河岸まで塩荷を積み登る。
鰍沢で荷揚げされた塩荷は、釜無川と木宮川にi沿って馬背で甲州道中を北上して行く。南アルプスの尾根筋が甲斐駒を過ぎて低くなる辺り、金沢宿を西に曲がって峠道に入る。そして峠を下ると御堂垣外(みどがいと)に辿り着く。
さらに藤沢川に沿って杖突往還を下って行く。ここから信州高遠は二里ほどである。金沢宿を折れずにそのまま北上すると、諏訪湖を見下ろしながら杖突峠を越えて高遠に向かうことになる。 湊から遠くなるに連れ塩の値段は上がるわけで、江戸時代は明治以降に比べて野沢菜の漬け物に限らず、土地の味噌や醤油は塩気が薄かったかもしれない。高遠から40`ほど北上すると塩尻。塩の最終宿から付いた名称との説がある。 |