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農村に文化を育てた人々3

■寛保2年(1742)に編集された「公事方御定書」は刑罰を規定したものだが、第79に「拾五歳以下之者御仕置之事」なる項を設定し、盗みをした者は大人の刑罰よりも一等軽く申し付けるべし、といった内容があり、15歳以下は大人として扱わなかったことが判る。
 当時は数え年であるから満に直すと14歳以下となる。現在の少年法は14以上に刑事罰が科される。以上も以下も14を含むが、14歳が境界線にあるのは興味深い。
 各地の民俗として残っている表現に、「七つ前は神の内」「七つまでは神の子」というものがあり、7歳になると氏子入りの儀礼を行なった。つまり、7歳で人の子として扱われた。よって江戸時代は7歳から15歳までを子供としたことになる。
 女子は稀であったが、男子は7歳を過ぎると村の手習塾で読み書き算用を学ぶ者が多かった。天保期(1830-1843)半ば上野国勢多郡原之卿村(現・群馬県勢多郡富士見村)に百姓・伝次平は手習塾を開いた。

■伝次平は病没する安政4年(1857)までのおよそ20年の間に、延べ64名の子供たちを教えた。子供たちの平均学習年数は7、8年間だった。伝次平の手習塾では子供一人ひとりの能力に応じた教え方をしたため、同一の学習課程を学んだ子供はいなかった。
 どの子供も学んだ学科は、「源平」「村尽(むらづくし)」「国尽(くにづくし)」であった。
 源平は別名、「名頭字(ながしらじ)
」とも言った。「源平藤橘惣善孫彦丹吉又半新勘甚内」で始まる姓名の学習である。村尽は生活圏にある村の名の学習。手習塾は前橋藩の領内であったから、その周辺の36ヵ村の名が対象となった。国尽は国の名の学習。畿内5ヵ国から始まり西海道11ヵ国で終わる68ヵ国の名を覚えるのである。
 手習塾で学んだ子供たちは塾を卒業すると「筆子中(ふでこちゅう)」という仲間を結成。筆子中は成人になると村政に重きをなした。師匠・伝次平の没後、筆子中は筆子塚を建立し伝次平の徳を称えたという。
※参考文献「暮らしの中の古文書」(浅井潤子編 吉川弘文館) 

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