農村に文化を育てた人々2
■現在の長野県上伊那郡高遠町は、元禄4年(1691)に譜代・内藤家が3万3千石で入封した領地だった。石高や山間部であることからも判るように高遠藩は、「裾からボロが下がり藤」と冷笑される貧乏藩であった(家紋が下がり藤)。領内の百姓が老中に直訴したり、「わらじ騒動」という全領一揆なども起きている。 高遠の城下から北側の在方へ向かうと、奥山の谷筋に中条という村がある。江戸時代は村高120石、家数20軒ほどの寒村だが日蓮宗の小寺があり、その拝殿の長押に絵板(扁額)が29枚掲げてあるという。絵板には平安貴族の肖像と次のような雑俳(遊びの要素が強い俳句の総称)が記されてあった。
世の節を抜いて七九の竹の杖 藤沢栗木田村
竹の子や早や尺八の言イ名附ケ 甲州鰍沢連
※「七九」(しちく)は年齢と「糸竹」「紫竹」(共に読みは、しちく)を掛けている。七九は本当の年齢というよりも年寄りを象徴しての意味であろう。
■奉納されたのは「宝暦五乙亥
九月」。宝暦5年(1755)であり額施主として中条村の武助、文右衛門の他28名、絵師は弥勒村の太郎右衛門となっていた。弥勒村は中条村の近隣である。また、「参州
芦葉撰」とあり、三河の芦葉という宗匠が句を選んだことが知られる。
何が言いたいかというと、南信濃の貧乏藩の山奥の村に平安貴族を描ける百姓や俳句が詠める百姓がおり、三河や甲州、相模の人々とネットワークを形成していた事実である。
しかも、江戸(時代ではなく都市としての)で雑俳が盛んになるのは元禄末で、これは前句(題としての七七の句)に対する付句(題に付ける五七五の句)の在り方が関心の的であったが、寛延3年(1750)の付句集「武玉川」(むたまがわ)を境に俳諧本来の付合に心を配るより、むしろ付合一句の趣向を競うようになり、この風潮は明和2年(1765)以降の川柳の隆盛へとつながっていくのだが、中条村の扁額の句はすでに川柳の趣きがあり、江戸の寒村の百姓とてバカにできないことを、現代人の我々は知るべきであろう。 |