江戸の農民13                                          江戸の農民TOP  江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

奉公デモグラフィック

■美濃国西条村の出稼奉公(11歳〜60歳)の高い層は小作農で男子63l、女子74lであるが、地主層でも男子39l、女子32lと低くはない。これは「見習奉公」だったと思われる。武州多摩郡石田村の豪農の末っ子として生まれた土方歳三も、江戸上野の松坂屋や大伝馬町の質屋(呉服屋の説もある)へ奉公に出されている。彼の場合はどちらも長続きせず実家に戻っているが。
  奉公先は男子では名古屋、大坂、京都など都市が最も多く、次いで農村、そして伊勢の四日市・浜田(地方的商業中心地)や美濃の笠松(幕府郡代陣屋)など町場の順。女子は名古屋、京都などの都市と農村が同程度であるが、幕末になると美濃・竹鼻(織物町)や尾張・野間(湊町)など町場が都市・農村と肩を並べるように伸びてくる。都市への奉公は男女とも調査初期には京都が最も多かったが、文化期(1804-1817)を境に名古屋へ切り替わる。
 なお、京都では西陣への奉公が多かった。西陣は享保15年(1730)の大火後、上質絹織物生産の独占的地位を失う。その後、天明8年(1788)にも類焼するが、それでも美濃から出稼奉公人を集める力があったと見ることができる。

■町場への奉公は天保末年頃(1840-43)から急速に増加する。この時期、西日本の城下町の人口減少が共通に見られる現象で、商業・手工業の中心が城下町から在郷町へ移行していくのである。
 農村の奉公は西条村6キロ以内の地域に9割が集中。奉公期間は1年が男女とも7割だが、残りは2年以上で年季奉公は1年とする幕府の禁令は守られていたわけではない。年齢層は男子21歳〜30歳、女子16歳〜25歳が7、8割を占める。奉公先では実名ではなく定まった名前のある場合が多く、「惣七」「与助」「よし」などと呼ばれている。また、奉公先を定期的に移動しており周旋業者「口入屋」の存在が想像される。
 都市・町場・農村の他に武家奉公がある。西条村は大垣藩預かり地の天領であった。よって大垣藩家中が多いかというと、女子の場合はそうはいえるが彦根藩家中と大差なく、男子は彦根藩のほうが圧倒的である。領地支配と領民の奉公先は関係なかったようだ。奉公年齢は高年齢で始まり長期継続している。重労働ではなく家事仕事が中心だったからであろう。

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