医心方5
■江戸時代は医者になるにあたって国家資格を必要としなかった。現代のコピーライターやデザイナーのように、自分はコピーライターであると名乗れば世間に通用したのであった。ただし、それで日々食っていけるかどうかは「世間の評判」次第となる。実力のみが評価されたとも思えないが、患者への対応の工夫や要領のよさが評価を左右したのではないか。現代の医者は国家資格を取得すれば安泰と、工夫なき要領ばかりを追い求めているように見受けられる。「世間の評判」を基準にして良い病院を選別していこうという動きはあるが、国家資格の見直しまで踏み込んだほうがいいと思う。 さて、江戸時代の町医者は儒学者や本草学者が兼ねていた。前回述べた多紀氏が創設した日本初の医学校「躋寿館(せいじゅかん)」は、当初は町医者への教育も行ったが、寛政3年(1791)に名称を「医学館」と改め幕府の直轄になると幕府医官子弟への教育機関の道をたどった。
■江戸時代以前の医者はどうだったか。室町も鎌倉時代も江戸期と大差なかったようだが、天皇親政の飛鳥時代後期〜平安時代は違ったようだ。中国の律令制をモデルにした日本初の成文法「大宝令」(701年)に医学系統の官吏の規定と医学生養成の規定が出てくる。幕府直轄となる前の「躋寿館」が私学初とすれば、大宝令による医学教育は官学初といえよう。 大宝令による医学教育の対象者は、地方の郡司による推薦で決まった。推薦された者は中央政府の試験を受け、合格した者は6年間の医学教育を受けた。その内容は歴史考古学の樋口清之氏によれば、「木骨法」というものだったらしい。人間を形づくる約350の骨から成る骨格標本の骨を学生に毎日一つずつ与え、学生はその日のうちに柘植の木で骨と似た形に削る。全身の骨が出来上がると紐で繋げて骨格標本をつくる。 患者を診る時は骨を基準にして手で押さえ、経絡点を探った後に患者の反応を診ながら診断をくだしたことから、木骨法を医学の基礎教育としたようである。 |