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古書と幕府医学4                                                    江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

医心方4

■「今大路」氏の出自に疑いがあり、丹波氏の流れではないだろうと前回述べた。では由緒ある丹波氏の流れを汲む多紀氏は、幕府でいかなる医官であったのか。これである。
 多紀氏が江戸史の事象において登場してくるのは、明和2年(1765)に「躋寿館(せいじゅかん)という医学塾を開設した多紀安元からである。躋寿館は多紀安元個人が創建した日本初の医学校として知られているが、敷地である神田佐久間町の土地は幕府から提供され、建物の普請も補助を受けており幕府公認の私塾といえるものだった。
 この時、多紀安元は幕府「奥医」であった。正確には「奥御医師」と記す。「奥」とは城の奥の意で、将軍の診療にあたる医師を指す。法印・法眼医師が16名おり200俵高で御番料(役料)200俵が支給(合わせて400石相当)されているが、典薬頭の半井1500石、今大路1200石の1/3〜1/4にすぎない。

■しかし、お飾りだった半井・今大路にはない、高い技量があったのだろう。多紀氏の躋寿館での武士・町人の子弟への医学教育が認められ、寛政3年(1791)に名称を「医学館」と改め幕府の直轄となる。幕府医官やその子弟の教育機関として機能し、多紀氏は代々医学館の館長を務めていく。
 多紀氏は、幕府の医師教育や医師管理の中枢の長となったわけだが、こうした地位に立つと祖先・丹波康頼が編纂した「医心方」の内容が気になり始めたようだ。そこで正親町天皇から下賜され半井氏に代々所蔵される「医心方」を幕府を通して求める。
 ところが半井氏は、「天明の大火(天明8年の京都大火)で焼失した」の一点張り。幕府を通して本を求め始めたのが寛政の初め、ちょうど医学館に名を改めた頃。そして半井氏が、「脱字が多くお役には立たないだろうが、ご所望だから内覧に供する」と、やっと本を借り受けられるのが安政元年(1854)。口説き続けて60余年。多紀氏の手によって天下の秘本が復刻されたのだった。

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