医心方6
■安永年間(1772-1781)に著された「風俗見聞録」に次のような記述があるという。 「医道の本意を失ひ、猥りに驕奢にほこり、欲情のつよき事言語道断(中略)富貴なる病人へは、丁寧に療治をなし、貧窮のものへは疎略(中略)武士の往来よりも騒敷、行違に人を悩まし、或は喧嘩を仕かけ(中略)弁当代と号して金銭をねだり取る」 以上は幕府医官と藩医官について記したもので、殊に幕府医官は威張りくさっており、小大名や小旗本からの調剤あるいは往診の依頼には、至極当然のように藩医や民間医に委ねて彼らから名義貸し料を取っていたらしい。
寛政3年(1791)に「躋寿館(せいじゅかん)」の名称を「医学館」に改め幕府直轄として幕府医官子弟の教育機関とするのは、医官の資質向上と綱紀粛正の意味があったわけである。
■しかし、医学館が教育対象とした医師は、40歳以下の無役の中級医師とその子弟であった。また医学考試として口頭試験と筆記試験があったが、医学館の講義に出席している医師は免除された。 考試における口頭試験は「問答」と「素読」に分かれていたという。問答は試験官の前で5題の設問に答え、素読は漢方医学の基本書物の一節を音読するものだった。内容は本科(内科)、小児科、外科、口科(歯科)の専門に分かれ、受験者もそれに従った。 筆記試験は「医案方付」と称し、出題内容は実在の患者の具体的な症状、経過を書き記した文面で、答案として自らの診断を書き(医案)、それに適した処方を示す(方付)というものだった。
考試の傾向としては、病状の看別・診断を最も重視し、次に治療の方法、薬物の処方、語意の認識であった。寛政6年の本科問答でいえば、日常的な必須知識を問うとして、血尿2症と水腫2症の看別を述べさせている。病症から江戸期を探ることもできそうである。 ※参考文献/橋本昭彦著「江戸幕府試験制度史の研究」(風間書房) |