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江戸町方の人別帳                                                                         江戸と座敷鷹TOP   江戸大名公卿TOP

 

出居衆と出稼人
 
出・入人別帳を新たに作成することになった理由は、出居衆と出稼人の相違が判然としなくなったからだと思われる。
 出居衆とは上述したように、地方から江戸にやって来て、何らかの商売をしているが、現在のところ一戸を構えずに他家に同居している者で、多くは職人だが奉公に出るために待機中の者も含んでいた。
 これに対し出稼人は、農閑期の稲刈りが済んだ11月・12月・1月・2月の4ヵ月を江戸で働き帰国するのが本来の姿なのだが、寛文期(1661-1672)頃から江戸に居付いて江戸の下層町人となる者が多くなったといわれる。
 寛文期から100年ほど経った安永6年(1777)に、幕府は村役人へ村高と村の機能を維持するのに必要な人数を見積もり、余剰人員のみを出稼人として出すように命じている。安永8年は松平定信が140万人の減少を嘆いた諸国人別改めの前年にあたり、幕府の命令がまったく効果なく終わったことを物語っている。
 江戸に請人がいないと奉公はできないが、奉公先を斡旋する口入宿に判賃を払えば請人になってくれたから、江戸に親戚や知人がいなくても出稼人は奉公できたのである。さらに出稼人の奉公は武家の中間・小者・陸尺(ろくしゃく)などが多く、武家屋敷の長屋住まいとなれば町方の人別改めに引っ掛かることもなかっただろう。
 江戸市中の商舗は、知人などを通して直接国元から奉公人を雇い入れることが多かったが、武家の中間・小者などの奉公人で譜代の者は享保の頃に消滅し、一年・半季の出替奉公が普通となっていた。江戸の中期以降は武家奉公人は不足ぎみだったともいわれる。

 出居衆と出稼人の違いは、職人を別にすると違いがないのである。奉公に出る待機中の者と称せば出居衆と見なされ、人別改めをクリアできてしまうのである。幕府も借家人(店借)が出居衆を同居させる際は、出居衆から請状を取って家主(家守)へ届けるように法令を何回も出しているが、口入宿の手代などが請人となって請状を出せば済むことであった。
 天明8年(1788)12月、幕府は領主・代官・村役人から出稼ぎ許可状を出してもらい、これを江戸の口入宿を通して町奉行所へ提出するべき旨の令(出稼ぎ制限令)を発布する。しかし、武家屋敷の長屋に住んで奉公する出稼人に効果はなく、55年後の天保14年(1843)3月に人別改令が発布される。
 人別改令は9箇条から成り、内容は以下のようなものだった。
 
 1、在方から新たに江戸の人別に入ることを厳禁する

 2、特に必要があって在方から江戸に入る場合→職人は出稼ぎの期
   限を定め、支配の代官、領主地頭に願い出て、これら役人の印と
   村役人の連印の免許状を持参して出府(江戸へ出る)すること。江戸
   に住居する者はこの免許状によって同居させたり、店(たな)を貸し
   たり(借家人に)すること。この時には免許状は家主が預かり、当人
   は人別帳に加えずに出稼ぎの者仮人別帳に記入しておき、期
   限がきて帰国する際に免許状を返してやること

 
3、特に必要があって在方から江戸に入る場合→職人以外の奉公出
   稼人は2条と同様の免許状を持って出府すること。江戸に住居す
   る者はこの免許状によって請人となり、奉公をさせること。免許状
   は奉公先主人が預かり、奉公人が暇を取る際に返すものとする
   
   3条によって奉公人の給金が上がらないよう幕府は、武家方中間、町方下男、武
    家町方下女の給金に制限を加えた

 4、人別帳について→これまで人別帳は名主が保管していたが、今後
   は毎年4月に両町奉行所に人別帳を一通ずつ差し出し、名主
   には
控えを預けておくことにする。今後の人別改めは家主が、店
   子その家族、召仕、同居の者まで生国・菩提所・年齢など詳しく記
   して名主へ差し出し、名主は一人ずつ呼び出して判元を見届けて
   人別帳に調印させた上で、両町奉行所に差し出す分を町年寄へ提
   出すること。名主が保管する人別帳には改め後の存亡、結婚によ
   る増減はもちろん、同居人の出入まで委細に記入しておき、判形
   を改める者があればその旨断り書きをして調印させ、不時に奉行
   所から尋ねられた際に差し支えのないようにしておくこと。

 5、毎年9月には4月に差し出した人別帳を名主に下げ渡すから、4月
   以降の増減を断り書きして書き出すこと。

 6、4月に名主が奉行所へ人別帳を差し出す際には、奉行所で前年の
   人別帳と付き合わせて取り調べるものとする

 7、町方の者が出家したり、頭を剃って道心者や願人坊主になったり、
   吉田・白川・陰陽師・神事舞太夫などの門下となるなど、身分不相
   応の許状を得た際は、町役人(町年寄・名主・家守)から町奉行所へ
   申し出ること。奉行所は吟味した上で許可するものとする

 8、江戸市中の内における転居の場合は、これまでは人別送りをしな
   かったが、今後は転出元支配の名主から転出先支配の名主へ、
   転居通知を送達すること

 9、近年、江戸に入り込んで妻子なく裏店を借り受けている者の内に
   は、裏店を一期住まい(いちごすまい、終の棲家の意)とする者もある
   が、これらの者は早々に帰国させること。ただし、商売をして妻
   子のある者は、格別の御仁恵をもって帰国を命じないものとする

吉田・白川
吉田とは亀ト(きぼく)をつかさどる家柄であったト部(うらべ)氏の後裔吉田兼倶(かねとも)が室町時代末期に唱え始めた吉田神道のこと。白川とは朝廷の祭式儀礼を継承してきた神祇伯(じんぎはく)白川家の伯家(はっけ)神道のこと。
 

 これと同時に在方と武家方に出した法令がある。
 在方にはこれまでは、百姓が廻国修業や六十六部巡礼(廻国巡礼の一つ)などに出る際に、村役人か菩提所寺院から往来手形をもらえば済んだものを、出稼人同様の許状をもらうべきものとされた。
 また在方の人別改めは今後は、死亡・出生、嫁娶及び出稼ぎ・奉公稼ぎ(奉公先が決まってから村を出る)に関しては詳しく調べて当人の印形を取り、印形を改めたらその旨の断り書きをし、出稼ぎ・奉公稼ぎの者が期限内に戻らない時は、その旨を代官・領主地頭に訴えるべきものとされた。
 大名旗本へは、今後は在方の者が江戸の人別に入ることは禁止となったから、領内の百姓の人数を減らさないようにするべき旨と、領内の職人・百姓が
特に必要があって在方から江戸に入る場合の免許状の手続きに関して命じている。
 しかし、大名旗本諸家の従者の身元調査を厳重にするように、とか、大名旗本の屋敷内長屋に身元不確かな中間・小者をおくことを厳禁す、という法令は出ていない。この種の禁令が出るのは万延元年(1860)の桜田門外の変以降である。尊攘派志士の弾圧がらみの禁令であるから、どれだけ武家奉公の出稼人に影響を与えたか分明ではないが、明らかに影響が見られる年がある。
 文久2年(1862)、この年の閏8月に大名妻女の帰国を許可したことから、9月には幕府が失業した足軽・中間・小者に帰農手当を支給するのである。
 江戸の武家人口は統計外で数字を出せないため影響云々としか書けないが、江戸町方の出稼人の実数は天保14年7月の男2万5848人・女8353人が、24年後の慶応3年(1867)9月には男3642人・女1050人と激減している。だが、激減するのは安政期以降である。強制的な人返しを含み、6条のごとき恫喝めいた条文がありながら、それほどの効果はなかったものと思われる。おそらく、人別改令を発布した水野忠邦が、その年の閏9月に失脚(翌年6月に再任されるが1年経たずに再失脚)したことから人別改めが形骸化したものと推測する。
 激減の理由はやはり幕末の騒然とした政局事情と、安政6年(1859)に横浜が開港し出稼ぎ・移住者の勝手商売を幕府が許可したことが影響していると思われる。

天保の仮人別帳
 天保期の人別帳の記載事項は、原則的には寛政期のものと変わらない。が、付記事項が若干ある。
 江戸市中における移動に関して→奉公人(住込中)は主人の人別に加えるが、暇を取ると親元へ帰るので、親の居住する町の人別帳には名前を記し欠印にしておき、奉公先などその旨を断り書きしておくものとされた。娘が縁付く場合は娘の人別を抜くことになる。離縁は考慮しないのである。
 後家が地主の場合は成人であっても必ず後見人をおく定めだった。後家が店借で後見人がいない場合は戸主は女名前でいいが、名前の上に死んだ夫か父親の印形を捺しておくものとされた。これは人別帳に捺す印形が実印の決まりで、実印は男のみが持つべきものとされたためである。 
 次に、新たに作成することになった仮人別帳の書式は以下。

  美濃紙堅紙

    出稼之者仮人別書上
                                 何番組

                                 何 町

                                     名主誰  
 

           何番組
               名主誰支配
                 何町
                        誰店
                 何商売            誰 印
  
    この者の儀は、何国何郡何村百姓誰倅、誰何にて、何宗同国何寺檀家、
    当何月より何年中まで免許状持参、出稼ぎ仕り候
                        
                        誰店
                      何歳         誰 印

    この者の儀は、何国何郡何村百姓誰にて、何宗同国何寺檀家、当何月
    より何年中まで免許状持参、出稼ぎ仕り候

     惣人数何人
    右の通り、出稼ぎの者、仮人別相違御座なく候以上
                      何町
      年号 月                月行事
                                誰 印
                            名主
                                誰 印

      

 何番組とは、名主組合で編成されたその町の名主の番組。月行事(がちぎょうじ)は家主五人組の中から毎月交代で町用・公用を務める者のこと。地方から出てきた相撲取に家を貸す場合は、相撲取締の年寄から断り書きを取れば問題なしとされた。これは相撲取の弟子は、国元から持参した免許状を年寄へ差し出す決まりだったからだという。

■さて、最初に掲示した短編小説へ戻ることにしよう。
 引用した箇所は、本所地区のしぐれ町という架空の町の一丁目の自身番に詰める書役万平(通称加賀屋)と、三丁目で表店を借りて呉服商売を営む新蔵の、町中ての立ち話の場面である。
 まずは江戸時代のいつ頃か、である。
 かなり人別改めが緩いので、天保の人別改令の前の時代であることは確かである。二人しか兄弟がいないにも拘らず、兄の新蔵は弟の半次が欠落ち者なのかどうか判然としないのである。
 新蔵・半次の父親は、しぐれ町一丁目の表店で古手屋(古着・古物の商売)を営んでいたが、借金から店を潰し一丁目の裏店へ引っ越したとある。兄弟の母親は8年前に死没し、父親はそれ以前に死んでいる。新蔵がしぐれ町三丁目の表店を借りて呉服商を営むのは5年前。新蔵の年齢は40歳くらいに描かれているから、35歳で地元に独立の店を開く前は呉服問屋に奉公していたと思われる。
 弟の半次は現在37歳で15、6年前に檜物師(薄い材を曲げて底を付けた容器=曲物の職人)の親方のところから失踪したとある。半次が失踪する半年ほど前に新蔵は結婚して所帯を持ち現在15歳と12歳の子どもがいるから、半次は21歳の時に失踪し、新蔵は24歳くらいで結婚したことになる。

 兄弟の父親がいつ死んだのか定かでないが、新蔵は24歳で結婚して戸主となり母親と同居して三丁目の裏店に住み、奉公する呉服問屋へは住み込みではなく、通い手代として勤務していたと推測される。弟の半次の人別は檜物師の親方のところにあっても、戸主となった兄の人別帳から抜かないのが原則である。新蔵の結婚後半年して弟が失踪したならば、その年ないしは翌年の人別改めの際に檜物親方が住居する家主と新蔵が住居するところの家主が、戸主である新蔵に問い合わせに来るのが原則である。
 しかしながら、新蔵は弟の半次が欠落ち者かいなか判然としないのである。欠落ち者たから人別から籍を抜くものではないが、籍があるかないかを戸主の新蔵が判らないのは不思議であり、従って人別改めが粗雑に行われた時代を小説は舞台として設定している、ということになる。

 では、天保の人別改令の前のいつ頃なのか。弟の半次は職人修業するにあたって本所地区からすぐ隣の深川へ人別を移動している。半次は江戸生まれとは書いてないが、物語の流れからすれば当然江戸生まれであろう。人別改めの方式が何度も変遷するのは、地方から江戸に入る者が多かったからである。歩いて奉公できる距離に人別を江戸生まれが移すのは、天保の人別改令からと思うが、そうなると上記と整合性がとれなくなる。となると、小説の時代は寛政期の出・入人別帳を作成するようになる寛政8年から天保14年の47年の間となろうか。
 
 細かいことだが、書役の万平が、「先方の名主さん名義で」と話している。先方は上方のことだから、京都ないしは大坂を指す。江戸の名主にあたる町役人は京都では「町代」、大坂では「町年寄」と呼ぶようである。万平の勘違いであろう。

関所手形について
 
小説では半次が失踪したのは、悪い仲間に入り仲間内で半次の不義理が露見し、江戸を出なければ命を取ると脅され、上方へ逃げたという設定になっている。そして最終的には再度昔の仲間に脅され、上方へ戻って行く。
 男は女に比べ関所の通過はかなり緩かったとはいえ、箱根と碓氷の関所を通過するには往来手形が必要であった。男の往来手形は村なら名主や旦那寺が交付し、江戸市中なら家主が交付したから、半次は町の家主に往来手形の交付を願い出ているはずだ。
 従って、往来手形を交付してもらって、箱根か碓氷の関所を通り上方へ向かったのだから、欠落ち者云々の話が出てくるのはおかしいのである。
 江戸時代の幕府の関所は28ヵ所あった(53ヵ所など時代により異説あり)。相模国箱根・根府川・矢倉沢、信濃国碓氷・横川、上野国川股、上野国五料・大渡・定渡、上野国松ノ橋、上総国関宿、上総国松戸・房川・市川、武蔵国駒木野(小仏とも)、信濃国勢内路、信濃国福島、信濃国木曾、信濃国小ノ川・帯川・浪川・石川、下野国栗橋、相模国西浦賀、遠江国荒井(今切とも)、遠江国本坂、近江国柳ヶ瀬、近江国山中の28。
 これらの関所を管理したのは近隣の譜代大名もしくは代官であったが、男の場合は厳しいとされた箱根・碓氷を除くと、往来手形がなくても、身分を証明できれば通過できた。半次なら曲物を作ってみせれば檜物職人と判り通過できたのである。

 女の場合は町村役人・旦那寺とも往来手形を交付することができず、江戸から出る(関東から外へ出る)には留守居の発行する証文が、江戸へ入る(関東へ入る)には「女手形出之衆」の発行する証文が必要だった。
 留守居は将軍が江戸城を離れた際に留守を務める旗本の最高職。万治2年(1659)に江戸の町人の女手形は町奉行の管轄になり、留守居は武家の女手形と町人でも重要な女手形のみを管掌するようになった。
 「女手形出之衆」とは各国の重要都市において、支配所内に居住する女の関所手形の発行を管掌した者で、遠江国なら浜松城主、伊勢国なら桑名城主、信濃国なら高遠城主と定められていた。

 話を半次に戻す。
 正徳元年(1711)に相模国箱根・根府川・矢倉沢の関所に対する定書が制定され、その中に次のような内容がある。

一、手負、死人並びに不審なる者、証文なくして通すべからざる事

 
これ以外なら男は往来手形がなくても箱根の関所を通れたわけで、半次は檜物職人であることを示して通過した可能性がある。そうであれば欠落ち者云々も不思議ではなくなる。辿り着いたのが京都か大坂のどちらか判らぬが、将軍のお膝元の江戸より人別改めは緩かったであろう(大坂の人別帳には国別の出生地を記入しなかった)。口入宿が請人になり、職人でもあるから、兄の新蔵が想い描く、「世間の裏道を歩いて来た」ような生活ではなかったのでは、と思われる。
 しかし、半次は15、6年ぶりに兄新蔵の前に、うらぶれはてた姿で現れるのだ。これは半次が辛抱の足りない性分だったとしかいいようがないのである。


※参考資料:石井良助著「江戸時代漫筆 第四・五」(明石書房) 「江戸学事典」(弘文堂) 笠間良彦著「江戸町奉行所事典」(柏書房) 藤田覚著「松平定信」(中公新書)など