江戸町方の人別帳                                                                         江戸と座敷鷹TOP   江戸大名公卿TOP

 

■「本所しぐれ町物語」(新潮文庫)という藤沢周平氏の連作短編がある。江戸の風合が伝わってくる見事な作品で、狂言回しに自身番に詰める家主と書役を登場させているのも秀逸だ。
 こんな場面が出てくる(下線は水喜による)

「ええ、わたしもほっとしているところですが、加賀屋さんにお聞きしたいのは、弟の人別です」
「・・・」
「ただ、わたしの方の三丁目の自身番にとどけて出るだけでいいものでしょうか」
「弟さんが帰って来たことは、とどけましたか」
「いえ、まだです。こっちに腰を据えるのか、またむこうにもどるのかがはっきりしなかったもので」
「なるほど、わかりました」
 と言って、万平は立ちどまった。そこは一丁目のはずれで、万平の家は屋並みの間に暗い口をあけている路地の奥にある。
「弟さんの人別は、上方に行く前はどちらにありました?
「檜物師の親方のところです。場所は深川の元町です
「それじゃ弟さんに一度聞いてみなさるといいが、上方に行くときは、元町の大家さんに頼んで人別送りという書付けをつくってもらって、それを持って行ったはずです。それがなくて姿を消せば、欠落ち者になりますからね」
「はあ」
「その手続きは、こっちにもどるときも同様です。先方の名主さん名儀で出してくれた人別送りをこちらの自身番にとどけ出て、おまえさんならおまえさんの人別に加えてもらうわけですな」
「すると・・・」
 新蔵は当惑して言った。
「こちらに人別をとどけるには、いっぺん上方にもどって、その書付けをもらって来ないとだめということでしょうか」
「まあ、建前はそういうことになるでしょうが・・・」
 万平はうす暗くなった町を見回すようにした。
(中略)
「一度、友助さんに相談してみなさい」
 万平は三丁目の書役の名前を言うと、後じさるように一、二歩路地の方に身体を移した。さっきまではぽっかりと暗かった路地の奥に、かすかな灯のいろが見える。
「たったそれだけの用で上方に行って来るのも、大変なことですからな。手紙で用を足すという方法があって、友助さんが万事はからってくれますよ。少し手間どりましょうし、多少お金もかかるかも知れませんが、なに、来年の人別調べに間にあえばいいことで、あわてることはありません」
 礼を言って、新蔵は万平と別れた。
(中略)
 新蔵は、十数年前の半次の突然の失踪を思い出して、弟がはたして人別送りなどという尋常な書付けを持って行ったかどうかは、疑わしいものだと思っているのだった。人別送りとかいうその書付けを持たず、旅の関所手形だけで上方の町にもぐりこんでしまったのだとすれば、弟は万平が言った欠落ち者ということになるのだろうか。もしそうなら、弟は上方でずっと世間の裏道を歩いて来たことになる。

 
 人別に関してこれだけのことを書いている短編小説は、他にはないのではと思う。加えて、人別という用語をこれだけの小説空間で、読者の興味を惹くように解説しているのは、見事というしかない術である。
 小説を最初に掲げたのは、江戸時代のいつ頃を舞台にしているのか、作者が特定していないためで、人別帳の改め方が時代と共に推移していくこともあり、これから解説していく中で小説のおよその年代を予測してみたいと思ったからである。

※自身番
当初、各町の地主が自身で詰めていたことから、この名称がある。天保期の定めによると、大きな町や2、3ヵ町共同の自身番は家主2人・番人1人・店番2人の計5人が、小さな町の自身番は家主1人・番人1人・店番1人の計3人が詰めていたようだ。交替で町内を見廻り、火の番にあたり、町内の雑務などを処理した。書役が1人おり自身番役あるいは自身番親方と呼ばれ、町入用(地主が負担する町の経費)の割振計算や人別帳の整備、奉行所の書類受付などにあたった。
町内の寄合相談の場であり、奉行所の定町廻り同心の巡回の場所であり、町内の事件容疑者を同心が取り調べる場所でもあった。
広さは9尺2間が規定であったが一般家屋と同程度のものもあったようだ。屋根には火の見を設け半鐘を吊るしていた。自身番の費用は町入用より支出した。


人別帳の記載事項

 人別改めの目的は時代によって異なり、それに従って記載の書式や内容も違ってきている。
 
 人別帳の変遷

天和3年
(1683)
9月/各町ごとに住民を改め、毎月名主より町年寄へ届け出るようになる
享保6年
(1721)
7月/名主より町年寄へ毎月届け出ることは中止となる
10月/名主から町年寄への届け出は、4月と9月の2回となり、住民数
の増減を届け出ることになる
延享元年
(1744) 
3月/9月の人別改めで人数の増減しか記さない町があることから、帳面
4月と9月に仕分けて念入りに記すことになる 
天明2年
(1782) 
生国名の他に郡村名、商売を記入させるようになる 
天明8年
(1788)
人別帳をもとに計算した江戸の住民数が減り、名主たちは改め方を厳重に
するよう注意される、これに対し名主たちは、減ったのは以前は武家方家
来で町方居住の医師や御用達町人なども加えていたが、近年は支配
違いの者は加えなくなったからだと応じている
寛政3年
(1791)
4月/町費の節約から人別帳の作成は4月のみとなり、9月は人数の増減
を4月の帳面に懸け紙しておくことになる 
寛政8年
(1796) 
人別帳の他に、新たに出人別帳と入人別帳を作成することになる
文政9年
(1826) 

人別帳に各自が捺す印形を改めた際は、その理由を人別帳に記すことにな

天保14年
(1843) 
新たに「出稼之者仮人別書上」を作成することになる  

 大略は上の表のように推移している。
 人別帳についての事情が知られるのは、天和3年(1683)からでそれ以前のことは天和3年の人別帳から類推するしかない。この年の人別帳として伝わっているものに、「家持五人組之内、家主三郎兵衛」がある。
 家持(いえもち)とは、その町に家屋敷を所有している者のこと、家屋敷とは家屋とその敷地(宅地)のことだから、居付地主(いつきじぬし)とも呼ぶ。単に「地主」という場合は、その町に住居しない土地所有者を指す。例えば、吉祥寺に家屋敷があり、三鷹に土地を所有している場合だと、吉祥寺の町では家持ないしは居付地主と呼ばれ、三鷹の町では地主と呼ばれるということである。
 なお、幕府にとって町人とは地主・家持のことであり、後に町屋敷の貸与・売買が多くなると、家主(家守、大家とも称す)も加えられた。広義では町に居住する地借、店借も指し、町の人別に加えられている。

  家持五人組之内

一、拙者生国御当地父子共ニ同生し                家主三郎兵衛 印
   并私屋敷預け置申候家守長兵衛儀                   
   家守請人慥ニ取置、手前ニ手形                  父 宗円  
   これ有り候                               母   
                                        甥 清三郎
一、召仕男女十七人之儀
   銘々吟味改、人請寺請共ニ慥(たしか)ニ取置、
   両通宛私共手前ニこれ有り候、                   召仕女五人
   家来之内ニ徒者見届けざる者一人も御座無く候          同男十二人

 この人別帳から知られるのは、この当時は家持と家主(いえぬし)は同意語だったということ。後に家主と呼ばれる地主・家持の代理として町屋敷を差配(管理)する者は、家守(やもり)と呼ばれていたわけである。
 雇い人である家守と召使い17人には保証人がおり切支丹ではない寺の保証証文も自分の手元にあると記してある。
 家主三郎兵衛の商売、母親の名前、召使いの生国・名前、各人の年齢は記されていないが、最後に「徒者見届けざる者一人も御座無く候」と記してあることから、この人別帳の目的が「徒者」(いたずらもの)がいるかどうかにあったことが判る。

 享保6年(1721)から4月と9月の2回のみとなる。これは毎月だと場末の名主の中に人別帳を作成しない者があったからだという。それで済んでいたのだから、この頃の人別改めは相当緩かったのであろう。
 名主とは、江戸市中の発展につれ町政に専従する者が必要となってきた1600年台の半ば頃に制度化された町役人。江戸学では草創(くさわけ)、古町(こちょう)、平(ひら)、門前の4種に名主を分類している。
 草創名主は先祖が徳川家康の入国(天正18年=1590年)以前から住居していた者、家康に従って三河・遠江などから移住してきた者たちで、国役(くにやく、幕府への職人の技術奉仕、代償として町屋敷を与えられた)の負担者が多かったが、中には公役(くやく、人足の提供で後に銀納化)の負担者もいたらしい。彼らの名前が彼らの住んでいる町名になっていることが多い。
 古町名主は江戸の町割ができた後に、住居する町か拝領した町の名主役を務めた者。平名主は江戸市中が拡大する中、寛文2年(1662)以降に代官支配から町方支配に変わった新しい町の名主、門前名主は延享2年(1745)に町方に加わった寺社門前町の名主である。
 藤沢周平氏の小説舞台である本所は、その民政一般が江戸町奉行所の支配下に置かれるのは享保4年(1719)。従って平名主の町であり、「場末の名主」にあたる。

 正徳3年(1713)の頃にできた制度に「年番名主」がある。それ以前は江戸のすべての町名主を奉行所や町年寄役所に集めて、町触や申渡しを行っていた。名主の人数が多いことから(正徳5年に196名)、何組かに組み分けして一組から数人を選び、一年交替で勤めさせたのが始まりである。
 名主は世襲であったが、享保7年(1722)に町入用(読みは、ちょうにゅうよう、ちょういりよう、まちにゅうよう、などいずれでも正しい)を着服する名主がいるので、不正な名主は今後は一代限りとし、その跡は隣町の名主の付支配とする旨が町奉行所から伝わった。これに対して名主たちは、他に商売をしていないのに長年の務めが報われないのはおかしいと、反対運動をした。その結果従来通りとなるのだが、この時、江戸の名主たちは組合を作り、264人の名主を17番組に編成した。寛延2年(1749)には21番組(新吉原と品川は番外)となり幕末まで続くことになる。
 名主の主な収入は町屋敷売買の書類書替料(100両に付き2両=分一金[ぶいちきん]というが、これに付き礼銀2枚)と役料だったという。名主の職務は以下。
 A町年寄からの御触申し渡しの伝達
 B人別改め
 C火の元の取り締り
 D訴訟事件の和解
 E家屋敷の売買の確認、その他、証文の案紙(草稿紙)の検閲

 町年寄とは、奈良屋・樽屋・喜多村の三家を指す。三家の由緒は徳川家康に仕えた武士で家康の関東入国に従って江戸に入ったというもの。三家は当初、帯刀と熨斗目(のしめ、麻裃の下に着る礼服で腰の部分が縞柄となっている)の着用が許されていたが、天和3年(1683)に廃止される。寛政2年(1790)に樽屋と奈良屋に猿屋町会所勤務中のみ帯刀が許され、文政7年(1824)には三家ともに一代限りの帯刀が許されるが、これも評定所や町奉行所役宅などへの出頭の際とも条件付きだった。
 苗字については、喜多村は苗字として認められていたが、奈良屋と樽屋は苗字ではなく屋号とされた。樽屋は寛政2年(1790)に「
樽」を苗字として認められるが、奈良屋は天保5年(1834)になって「館」(たち)を苗字とすることを許されている。
 町年寄の役宅は本町一、二、三丁目にそれぞれあった。三家とも町の南側区画の東角屋敷で、役宅は奥の一部を使い、通りに面した箇所は商人へ貸していた。他にも拝領屋敷があり、彼らの主な収入はこれら拝領屋敷からの地代だった。
 町年寄の職務は以下。
 A御触の名主への伝達
 B新地の地割・受け渡し
 C人別の集計
 D商人や職人の仲間名簿の保管
 E町奉行の諮問に対する調査・答申
 F願書の関連調査、町人間の紛争の調査・調停
 以上は通常の職務である。時代によって札差仕法改正事務や河岸地冥加金調査など特別な業務を担当することもあった。
 慶応4年(1868)5月、新政府によって江戸城内に鎮台府が設けられ、町年寄三家は鎮台府付となる。この時、三家の他にこれまで地割役で町年寄並勤方の樽三右衛門という者も鎮台府付となるが、町年寄並勤方がいつ頃設置されたのかは分明でない。

 享保6年以後、延享元年までの人別帳は、総数と男女を16歳以上15歳以下に分けた人数を記し、内訳として家持・家守・父母妻子・掛人(かかりうど)・店借・出居衆(でいしゅう)・召仕・自身番および木戸番の番人の人数を記載させた。なお、父母妻子と掛人に関しては家持・家守・店借とも記載させている。
 掛人とは戸主の傍系親(伯父叔父伯母叔母)で同居している者のことで、武家における厄介に相当する。出居衆とは、地方から江戸にやって来て、何らかの商売をしているが、現在のところ一戸を構えずに他家に同居している者のこと。出居衆の多くは職人だが、奉公に出るために待機中の者も含んでいた。
 延享元年(1744)の帳面を4月と9月に仕分けて記すことになった際の人別帳は、店借・地借・出居衆・掛人の転出、奉公人出替、結婚、養子など、人数の増減に重点を置いて記載させている。
 奉公人出替(でがわり)とは、長年季・一季(一年)・半季の契約期間が切れ、奉公人が交替することを指す。江戸の出替は寛文8年(1668)から3月5日が慣例となっている。
 天明2年(1782)に郡村名と商売を記入させ、天明8年(1788)の若干前から支配違いの者を加えなくなる。人別帳の形が徐々に整ってくるわけである。御用達の商人や職人は、身分は町人なのだが幕府各役所(勘定方・作事方・納戸方賄方など)の御用達指定期間(扶持や給金を与えられている間)は士分格と見なされ武鑑などに記載された。しかし、町方の人別帳では天明8年近くまで、彼らの戸籍を外さなかったわけだ。ということは御用達期間は1、2年程が平均で、いちいち外して再度戻すのが面倒だったといえそうである。
 天明8年の翌年寛政元年の人別帳は、4月・9月の両度とも家持・家守・地借・店借・父母妻子・掛人・出居衆・召仕・(自身番の)書役・(自身番・木戸番の)番人に至るまで、生国・宗旨・請人を調査記入して各人の印形を加えて、名主のところに保管し、総人数は両度に書き上げて人数書上帳という)名主から町年寄に提出する形となっている。

 寛政3年(1791)に町費節約から4月のみとなるのは、江戸の打ち壊しを契機に老中に就任した松平定信が、食糧を消費するだけの大都市江戸の危うさを、備荒貯穀(囲籾=社倉)によって乗り切ろうと、町入用(町内の地主が所有面積に応じて負担するもので、公役銀などの税・消防関係・上下水道維持費・道路維持費・ゴミ処理費・捨て子行き倒れ者の手当・町内事務関係人件費及び物件費・神事祭礼費など。なお地主の手取収入は地代・店賃から家守の給金と町入用を引き、分一金の配分を加えたものとなる)を減らしその減額分の7分(70l)を備荒貯穀の財源にあてる「七分金積立」(しちぶきんつみたて)を始めたことによる。
 松平定信の行った政策で人別帳に間接的に関わるものに、「旧里帰農奨励令」がある。定信の著わした自叙伝「宇下人言」(うげのひとこと)にこの辺の経緯が記してある。

「すでに町かたの人別の改めというものも、只(ただ)名のみに成りければ、(中略)実に放蕩無頼の徒(と)住みよき世界とは成りたりけり、さるによりて在かた人別(村落人口)多く減じて、いま関東のちかき村々、荒地多く出来たり、ようよう村には名主ひとりのこり、その外はみな江戸へ出ぬというがごとく、(中略)天明午(うま)のとし(天明6年=1786年)諸国人別改められしに、まえの子(ね)のとし(安永9年=1780年)よりは諸国にて百四十万人減じぬ、この減じたる人みな死にうせしにはあらず、只帳外となり、又は出家山伏となり、又は無宿となり、又は江戸へ出て人別にもいらずさまよいありく徒とは成りける」

 食糧を消費するのみの江戸に貧民が流入し、食糧を生産する村落の人口が減る一方では、社会不安と食糧不安が増すばかりである。ここから松平定信は江戸に囲籾の制度を確立し、江戸の人口を減らし村落人口を増やすために帰農を奨励したわけだ。が、手当てを支給してまで村落人口を増やそうとしたにも拘らず、帰農したのは4人しかいなかったという。信じられないくらいの数字である。
 定信が記している「諸国人別」について若干触れておくと、享保6年(1721)から六年目ごとに全国的な人口調査の制度を設け、各藩より提出させた人別帳に幕府直轄領と旗本御家人の知行所給知の分を加えた、全国的な庶民の人口統計として「諸国人数帳」を作成するようになった。
 ただし各藩の人別帳は、当初は記載し始める年齢を統一しておらず、和歌山藩は8歳になって初めて記載などと差があった。しかし後になると15歳以上の者はすべて載せるように命じている。定信が記している諸国140万人の減少は、15歳以上を記載するようになった頃のものかどうか判らぬが、いずれにしても現代の人口調査とは格段の隔たりがあることを銘記しておいたほうがいい。

 寛政8年(1796)、定信の退職後に方向転換して人別帳の他に出(で)人別帳、入(いり)人別帳を新たに作成することになる。
 出・入人別帳は各町の家守(家主)が引っ越して来た者の名前・生国・宗旨・請人・商売・家族・召仕を調べ印を捺させ、その町から引っ越した者の名前・転出先を毎月調べて書き出した。これを翌月の朔日(ついたち)に名主へ差し出す。このようにして4月から翌年3月分までまとめたものが出・入人別帳となった。
 この頃の人別帳(出・入人別帳ではなく)は上段に生国・宗旨・旦那寺・店請人の住所名前を、下段に家持・地借・店借の表記で戸主の身分を記し、次に戸主以下の妻・子・父母・兄弟姉妹・伯叔父母・甥・姪・従弟・召仕・同居人の順に各人の名前年齢を記す。戸主の名前の上に商売、各人の名前の下に戸主との続柄を記す形であった。