江戸期の吉祥寺                                                           江戸と座敷鷹TOP   江戸大名公卿TOP

 

名刹吉祥寺の特殊性
 吉祥寺という寺院は明暦の大火の際は、現在の水道橋の北にあったとされ、JR水道橋駅の北側にあったような印象を受ける。しかし、天正19年(1591)の徳川家康による寺領寄進状に、「寄進 武蔵国豊島郡本郷之内五十石之事」とあり、明暦大火前の吉祥寺が本郷にあったことが判る。本郷はJR水道橋駅の東から東北にあたる。江戸初期は神田台と呼ばれ、本郷台地とつながっていたが、大火後の万治3年(1660)に深堀りされ(通船できる神田川の開通)、駿河台と湯島本郷台地に分かれている。
 本郷に来る前の創建話はこうである。長禄年間(1457-1460)、太田道灌が江戸城築造の際に、井戸の中に「吉祥」の文字がある金印を発見し、これを瑞祥として和田倉門の近くに創建したのが縁起である。
 さて、吉祥寺は明暦大火の後に現在地の駒込に移転する。格の高い寺で住職の任命は幕府寺社奉行所で行ったという。徳川家の庇護の厚さを思わせる。吉祥寺が他の多くの寺と異なるのは、学寮が設けられていたことである。
 吉祥寺は
曹洞宗であるから、諸国から集まってくる学生は寮舎で寝起きしながら曹洞宗の経典などを学んだと思われる。学寮は増上寺や寛永寺にもあったが、吉祥寺の学寮はそれらに比較して貧困な苦学生が多かったようだ。となると、托鉢しながら学んだのであろうか。明暦大火以前の史料はほとんど焼失しているので、吉祥寺の本郷当時のことは分明でない。
 かなり後年になるが、文化年間(1804-1817)の随筆に「遊歴雑記」がある。この中に、「門内の左側には衆寮数十株ありて、諸国より遍参の所化此学寮に来り集ひ、詫鉢の間々講席に出座して学ぶ事也、此故に当寺の門前町には書物文庫又応量器の類をひさぐ外、商人の仕入れざるもの也」と記されている。所化(しょけ)とは学僧ないしは小僧の意味、
応量器とは禅僧が使用する入れ子式の漆器を指す。
 門前町には学僧相手の書物や寮生活の日用品を売る店舗がほとんどだったわけだ。明暦の大火前も学僧数こそ少なかったであろうが、こうした店舗が多かったと推測できよう。苦学生が多いから利益は出なかったであろうが、借り店舗の営業でなければ生活の足しにはなったと思われる。よって店舗を借りてまでする商売ではなかった。つまり、吉祥寺が移転した駒込まで行ってする商売ではなかった。なぜ苦学生なのか。下級武士や町人、百姓の次男、三男以下が僧侶となって身を立てようと学寮に入ったからであろう。中には途中で諦め門前町に暮らす学僧崩れもいたであろう。
 おそらく、そうした者たちの中には店舗に入り婿ないしは養子となった者もいたはずである。そして、彼らが吉祥寺村の開墾を主導した浪人たちであった。入り婿、養子が突飛な推測なら、大火があり多くの死人が出たのであるから、門前町の店舗の住人の中には一人生き残った者もいたであろう。親しい学僧が開墾の手助けをしたとしても不思議ではない。
 
■八幡宮の次の交差点

 月窓寺についてはこうだ。月窓寺は曹洞宗系の単立寺院である。吉祥寺と同宗派となる。開山、開基という言葉がある。開山は寺院の創始者の意味で、開基は寺院創建の経済的負担をした一般信者を指す。月窓寺が吉祥寺村へ移転してくる前の名称は東岸寺だった。おそらく、東岸寺の開山は吉祥寺の関係者か学僧として学んだ者、開基は吉祥寺が徳川家から庇護を受けていた関係から、天暁院殿ではなかったかと思う。
 狭い地域に1社4寺もあるのは、どうしてか?武蔵野市の現在の寺院数は10軒ある。その内の4軒がここに集まっている。それも吉祥寺が町として大きくなってからではなく、開村当初からなのだから不思議だ。安養寺は真言宗、蓮乗寺は日蓮宗、光専寺は浄土宗、各寺バラバラだ。開墾者になにがなんでもこの宗派でなければ、という者がいたとは思えない。それにもかかわらず、新田村に4寺。たぶん、門前町の店舗では宗派を問わず仏教僧に必要な商品も扱っていたであろう。そうした店舗と親しい住職の中に、焼け野原となった江戸府内に寺を再建するより、茅野原の新開地に再建するほうをよしとする者がいたのだと思う。
 なお、吉祥寺学寮は明治期末に曹洞宗大学と名を改め、大正期末に現在の駒沢大学へと名を変えていく。

街道について
 
JR及び井の頭線吉祥寺駅の周囲にある主な道路は、井の頭通りと五日市街道である。武蔵野市内の主な道路も以上の二つだ。井の頭通りは大正13年(1924)に水道管が埋設された用地だったが、昭和12年(1937)から道路として使用されるようになった。従って別名水道道路とも呼ばれている。江戸期とは関係ないことになる。
 五日市街道は天正18年(1590)家康の江戸入り後に、江戸城修築工事に徴用された伊奈(現在のあきる野市)の石工(いしく 石垣工事が専門)らが通行するために開通したと伝わる。甲州街道の脇往還(わきおうかん)であり、別名伊奈街道とも呼ばれていた。
 五日市街道の道程は、青梅街道から馬橋村(まばし 杉並区梅里)で分かれ、吉祥寺村、小金井新田、砂川村(立川市)、伊奈村、五日市(あきる野市)に至る全長10里(約42`)ほど。江戸城の修築が終わると伊奈宿から江戸へ薪炭が運ばれるようになる。伊奈宿と隣接する五日市宿は後北条氏の時代から五と十の日に定期市が開かれていたが、江戸初頭には市は衰退していく。やがて、五日市宿は伊奈宿と江戸向けの薪炭市場を争うようになり、これに承応年間(1652-1655)に競り勝ち、以後奥多摩山間部から出荷される薪炭を独占し、江戸府内の薪炭消費の大半を賄うようになっていく。
 五日市街道は薪炭街道だったわけであるが、伊奈宿、五日市宿の他に牛浜(福生市)、砂川三番(立川市)、鈴木新田(小平市)、上保谷新田(保谷市)に馬宿や旅籠屋があり、江戸への奉公で通行する人々や小金井の桜見物に訪れる人々、玉川上水の検分役人などの通行もあった。

 青梅街道についても紹介しておこう。
 慶長11年(1606)、代官頭大久保長安によって、江戸城修築の白壁用石灰を産出地の上成木村(かみなりき)・北小曽木村(きたおそぎ 共に青梅市)から江戸へ運ぶために整備された。
 道程は内藤新宿の追分で甲州街道と分かれ、中野、田無、小川(小平市)、箱根ヶ崎(瑞穂町)の4ヵ所に宿駅が置かれ、青梅に至る11里である。青梅の石灰は当時「八王子石灰」と呼ばれ、江戸城のみならず日光東照宮、駿府城・大坂城・名古屋城・二条城にも使用されたという。
 しかし、安永年間(1772-1781)になると下野佐野(栃木県)の野州石灰と江戸本所・深川の蛎殻灰(かきがらばい)に押されるようになり衰退していく。加えて石灰輸送を舟運へ切り替えるようになったこともあり、青梅街道の利用は減少していく。それでも野菜や木綿織、絹織物、青梅縞などが江戸へ運ばれたり、御嶽山(みたけさん)参詣や青梅愛宕温泉・小河内温泉を訪れる人々、鷹場役人・玉川検分役人、高麗郡中山村(埼玉県飯能市)能仁寺に菩提所を持つ上総国久留里藩黒田家や旗本中山家の通行があったという。

助郷(すけごう)
 吉祥寺村は甲州街道上高井戸・下高井戸宿駅の助郷村だった。
 助郷とは宿駅が課されている人馬継立(つぎたて)を助ける村のこと。人馬継立とは人や荷物を前の宿駅から受け継いで次の宿駅まで運ぶことを指す。甲州街道(道中とも)の宿は一日に提供する必要のある人馬の数は25人25疋(ひき)であった。よって、これを超過すると近隣の村、つまり助郷村として指定された村が人馬を負担する制度であった。
 甲州街道が整備された慶長9年(1604)頃は日本橋の次が高井戸だった。が、日本橋-高井戸間が4里と離れていたため、元禄11年(1698)に中間点に位置する信濃高遠藩内藤家の下屋敷北側に宿駅を設け、内藤新宿と名付けた。この街道は寒村が多く一宿駅の負担を複数の宿で負担している。高井戸宿駅は下高井戸と上高井戸の二つの宿で一つの宿駅の負担をしている。月の1〜15日を下高井戸宿、16日以降は上高井戸宿の担当だった。
 吉祥寺村が初めて上下高井戸宿駅の助郷となったのは、宝永2年(1705)正月。これは前年12月に甲府城主徳川綱豊(家宣となる)の6代将軍就任の決定と、柳沢吉保の甲府入封が重なったため、多くの人馬を必要としたことによる。この時は「当分助郷」であったが、享保9年(1724)7月に甲府勤番の制度ができて以降、「定助郷」となったようだ。
 甲府勤番とは、享保9年に柳沢吉保の子吉里が甲府から大和郡山へ転封となり、幕領となった甲府城守備に勤番士を派遣するようになったことを指す。旗本・御家人合わせて200名が甲府勤番に配置された。甲府勤番の上司に甲府勤番組頭4名、その上に甲府勤番支配2名がいた。甲府勤番は「小普請入り(家禄3000石以下の無の旗本・御家人が入った)や、素行の悪い者が選ばれ、俗に「山流し」などと呼ばれた。持高務めの役料なし。つまり家禄のままの務めで、江戸から山間地への派遣だから待遇はよくなかった。
 
 宿駅の人馬の使用には無賃、御定賃銭、相対賃銭の三種があった。無賃で使用できるのは、将軍の朱印状か老中・京都所司代などの証文を発給された旅行者、御定賃銭は朱印状・証文で認められた人馬数を超過した場合に払ったり、参勤交代の大名が払う人馬代金で、道中奉行が一般旅行者の相対賃銭より安く公定したものだった。
 甲州街道は富士詣・身延詣の通行はあったが一般の旅行者は少なく、甲府勤番・八王子千人同心の往復や将軍家御用の御茶壷の輸送、参勤交代大名は信濃高遠、高島(諏訪)、飯田の三藩のみだったが公用旅行者の割合が高く、宿駅の経営は苦しかったようである。
 上下高井戸宿駅は天明年間(1781-1788)に規定の25人25疋を備えることができず、その内の11人14疋は助郷村が負担することになった。これには期間が限定されたはずだが分明ではない。文化13年(1816)に再び上下高井戸宿駅が疲弊し助郷村が7人14疋を負担することになった。助郷村は吉祥寺村だけではなかったが、近隣の助郷の村々に負担がシワ寄せされていった。
 上下高井戸宿駅はできるだけ人馬の負担を助郷村へ負担させようとするから、吉祥寺村などの助郷村と争いが絶えなくなってくる。幕末の文久元年(1861)になると、 従来通行しなかった西国諸藩の家臣らが往復するようになり、一層助郷人馬を必要としてくる。馬持百姓らは馬の飼料となる麦・稗・大豆の物価高で飼うことができず、大八車や牛車での助郷を許可してくれるよう、助郷村は道中奉行所へ願い出る。これが許され、街道筋では初の車使用となったのである。
 上下高井戸宿駅が疲弊していくのは、内藤新宿ができたからであろう。
内藤新宿は享保3年(1718)に廃止されるが、安永元年(1772)に再開し飯盛女150人を置いて発展していく。こんなのが隣の宿駅だと、上下高井戸宿駅に宿泊しようなんて旅行者はいなくなる。宿泊せずに人馬だけ利用されては運営は厳しくなる。
 明治2年(1869)に上下高井戸宿駅は内藤新宿の付属村となる。明治5年、全国の宿駅制度が廃止される。

八王子千人同心=甲斐と武蔵の国境を警衛した武田家遺臣を中心とした在郷武士団。日光火の番や蝦夷地開拓なども務め、勤務以外の時は田畑の耕作にあたった。

吉祥寺村の生活
 吉祥寺村を含めた武蔵野市内の村々は稗、大麦、小麦などの穀物を作り、年貢・諸役を納めると肥料代が足りなくなり、常に肥料代が借金として残るような生活を送っていた。従って、耕作の合間に賃銭を稼ぐ必要があった。いわゆる農間渡世、農間稼ぎ、と呼ばれるものである。
 購入肥料は糠・灰・下肥だった。下肥とは糞尿で江戸の武家屋敷・町屋から下肥料を払って得ていた。慶応元年(1865)の記録だと吉祥寺村は四谷左門町、同鮫ヶ橋谷町、同仲屋町、同伝馬町、鍛冶橋御門内、麹町一丁目などの武家屋敷から一軒につき茄子2000とか大根1000あるいは沢庵漬4樽、町屋の長屋5軒につき年2両2分、13軒なら5両という下肥料をはらっていた。なお、厩肥は金納で年3両が相場だった。
 農間稼ぎは明和年間(1764-1771)から盛んになり、名主クラスの上層百姓は資本を必要とする質屋や醤油造りなどを、零細な百姓はザルやチリトリ、桶など雑貨類の小売や穀物野菜の煮売りを街道筋に出て行った。吉祥寺村の弘化3年(1846)の記録には、「男は薪を取り、藁縄をなって江戸へ運び出して売り、女は苧(からむし)や木綿で機織をする」とある。
 
田無村の名主下田半兵衛や下染屋村(府中市)の名主粕谷兵右衛門は江戸へ店を出すほどになるが、吉祥寺村を含む武蔵野市の村には、そうした在郷商人は登場せず、彼らから借金をする者のほうが多かった。

 農間稼ぎで渡世せざるを得なくなると、「帳外(ちょうはずれ)が出てくる。キリスト教禁令により日本人全員が仏教徒でなければならなくなった、現在の戸籍に相当するのが宗門改帳とか宗門人別帳と呼ばれるもので、帳外とはそこから除名されたものを指す。
 帳外は勘当や夜逃げなどによって離村し、江戸やその他の城下町で日雇人足ならまだしも、幕末へ向かうにつれ関東をうろつき回る無宿者となり、社会不安・治安悪化を招くようになる。吉祥寺村では天保7年(1836)から明治4年(1871)の間に男65人女9人の帳外があった。20代30代が過半を占める。女の場合は寺社の参詣を止められ家出というもの、当時の寺社参詣は行楽のようなものだった。男は耕作を嫌って大酒を飲み借金をして勘当ないしは出奔という例が多い。
 文化2年(1805)、幕府は警察機関として新たに関東取締出役(八州廻り)を設置するが、効果は薄く22年後の文政10年(1827)に取締出役の配下に関東村々を置くため「組合村」を設置し支配を強化する。吉祥寺村は下連雀村や牟礼村などと同じ「布田組合」に入り、浪人や寄付集めに村へやってくる山伏・旅僧などに注意を、従前以上に払うことになる。しかし関東村々の治安に変化はなく幕末・明治を迎える。

関東取締出役=江戸近辺を支配する代官の手付手代が当初8名選ばれ、勘定奉行の直属として関八州の幕領私領の区別なく巡邏し、無宿や悪党の捜査逮捕、百姓一揆の動静などを探った。出役1名に雇い足軽2名、小者1名、道案内2名が付き、計6名が1チームの構成だった。手付は小普請入りの御家人、手代は百姓の次男・三男が多かった。

その他
 江戸期の武蔵野市内の村として他に西窪(西久保)村、関前村、関前新田村、境村、境新田村があった。それぞれ成り立ちを説明すると、西窪村は吉祥寺村と同様に明暦の大火で江戸の西久保城山町の百姓が移住してきたも
 
■杵築大社       クリック拡大
の、関前村は関村(練馬区関町)の百姓八郎右衛門が中心となって寛文9年(1669)に開墾計画を立てて開発したもの、関前新田村と境新田村は幕府が享保7年(1722)から推し進めた武蔵野台地開発によって、元文元年(1736)の検地で誕生した78村の内の2村である。
 境村の成り立ちは少し変わっている。
 出雲松江藩主松平直政は慶安年間(1648-1651)に12町四方にわたる下屋敷地を持っていた。将軍家光から与えられたもので、この屋敷地が境村の前身なのだという。屋敷地には天下泰平と屋敷繁栄を願って杵築(きつき)と稲荷の両社を祀った。
 屋敷地は貞享年間(1684-1687)に上地(幕領)となるが、屋敷奉行であった松江藩家臣の境本絺馬太夫(さかもとちまだゆう)は、上地となった12町四方の開発を関東郡代伊奈半左衛門に願い出て許される。絺馬太夫はその後、この地の長百姓になったという。境村の「境」は、境本絺馬太夫の「境」を由来としているそうだ。




※参考文献 「武蔵野市史」(武蔵野市史編纂委員会 武蔵野市役所刊) 「多摩と江戸」(大石学編 けやき出版) 「北多摩神社誌」(北多摩神道青年会 むらさき会) 「江戸学事典」(弘文堂)他