江戸期の吉祥寺                                                           江戸と座敷鷹TOP   江戸大名公卿TOP

 

痩せ地
 やはり気になるのは、自分が住んでいる町が、江戸時代に何という地名であったか、これである。わたしは東京都武蔵野市中町に居住している。今回資料にあたったところ、この居住地は、「武蔵国多摩郡野方領吉祥寺新田村」と呼ばれ、後に地元で「八丁」と通称されていることが判った。
 当時は管轄の代官の検地を受けて初めて村として認められる。検地は元禄16年(1703)11月に受けている。赤穂浪士の吉良邸討ち入りの1年ほど前になる。当時の管轄代官は伊豆韮山代官の江川太郎左衛門。といっても、江川氏の代官支配は元禄14年〜正徳3年(1713)の12年間で終わり、以降はころころ変わっていく。
 検地の結果は以下。

 総面積 30町6反8畝(せ)12歩(ぶ)
 内中畑 1町3反9畝5歩
   下畑 29町6畝17歩
      屋敷  2反2畝20歩

 坪単位に変換すると、総面積は9万2082坪。道路なしの100坪の敷地が920ほどある計算となる。一応東京ドームと比較すると、東京ドーム=4万6755uが6個半入る。あるいは、500m×600mの四角形よりやや大きい面積。ともかく、そんな広さだが、痩せた土地で下畑の査定であった。
 中畑、下畑は等級で、その畑地からどれだけの麦・大豆・桑・野菜などが収穫できるかを示したもの。幕府の標準
 
■八丁通り   クリック拡大
の上畑は1石3斗、中畑1石1斗、下畑9斗。しかし、吉祥寺新田の中畑は3斗、下畑2斗の査定であった。実は親村である吉祥寺村も同様の査定なのである。新田の収穫高は通常低く定めるものだが、それにしても地味の悪さが際立つ土地柄だったようだ。
 総面積が14に区画してあったというから14名ないしは家族が居住したと思われる。しかし、屋敷地2反2畝20歩の内、屋敷地が2畝歩という者が10名、20歩が4名であった。2畝歩は60坪、20歩は20坪で、どちらも屋敷地としては狭い。2畝歩の者は畑が2町歩余り(6000坪以上)あったが、20歩の者は畑が1町歩前後だった。これだと家屋が建てられず年貢を払うと自活も難しい。従って4名は親村の吉祥寺村か隣の西窪(西久保)村に家屋を持ち、通いで新田の開墾にあたっていたものと推定される。

 吉祥寺新田村には、「八丁」との通称があった。その由来は、村内を2区分して端数を切り捨て、「8町野」と「20町野」と呼んだ。時代が下るにつれ、「8町野」のほうが言いやすかったのだろう、いつの間にか「八丁」と呼ばれるようになる。現在でも「八丁通り」として、その名が伝わっている。上写真では八丁通りの商店組合「八丁商和会」の看板が見える。

吉祥寺村
 親村の吉祥寺村は寛文4年(1664)7月に検地が行われている。五日市街道を間に挟んだ北側と南側を別々に検地している。以下がその結果。

南側
 総面積 148町6反8畝22歩
 内上畑 13町4反2畝20歩
   中畑 27町3畝10歩
   下畑 105町1反4畝22歩
   屋敷 1町4反1畝10歩
 寺屋敷 1町6反6畝20歩

北側
 総面積 184町7反5畝25歩
 内上畑 18町2反9畝20歩
   中畑 32町5反6畝20歩
   下畑 130町8反4畝25歩
   屋敷 1町8反8畝
  宮地及び 1町1反6畝20歩 
    
寺屋敷

 南・北の広さは吉祥寺新田村と比較すると、なんとなく判るだろう。南側は新田村のほぼ5倍、北側はほぼ6倍の面積となる。
 検地帳には
北側の宮地及び寺屋敷に、八幡宮とその別当寺の安養寺の名が載っていないそうだ。南側の寺屋敷には、月窓寺の改称前の名である東岸寺が8反3畝10歩、光専寺と蓮乗寺が4反1畝20歩ずつとなっている。八幡宮と別当寺については後述する。その前に南・北の区割について記しておきたい。
 南側は寺屋敷を除くと25名に分割されていた。新蔵という者を除いて、すべて均等に区割されており、屋敷は五日市街道に面した部分が20間、奥に8間であった。畑は屋敷の後ろに上畑、中畑、下畑、自活用にしかならない下々畑とつらなっていた。数字で記すと屋敷地が20間×8間、その後ろに20間×76間の上畑、その後ろに20間×125間が中畑、その後ろに20間×111間が下畑、その後ろに20間×314間の下々畑、すなわち間口20間×634間のかなり細長い土地が各人に割り振られたのである。坪に換算すると1名あたり屋敷地160坪+畑地1万5000坪、吉祥寺新田村の10名の区分屋敷地60坪+畑地6000坪と比較すると、2.5倍ほどとなる。
 北側は南側より総面積は広いが、36人で区割しているので、十郎左衛門という者を除くと、南側の各人と大差なく、土地の形も南側同様に五日市街道に面した間口が20間で奥へ広がる細長い短冊形であった。
 
 以上から吉祥寺村は東西に走る五日市街道を間に、南北およそ2.3`、東西1.3`余りの広さだったことが判る。現在の吉祥寺本町、同南町、同北町、同東町を合わせた広さと比較すると、五日市街道を挟んだ南北の長さは同じくらいだが、東西の長さは2分の1に満たない。検地面積・収穫高は幕末まで親村、新田村とも変化がなかったというから、地味の悪さに辟易したものと思われる。

検地以前と由来
 八幡宮とその別当寺安養寺のことである。別当寺とは神社の敷地内もしくは隣接地に創建され、その神社の庶務などを担当した寺院のこと。よって八幡宮と安養寺は同時期に創建されたとみていいだろう。
 不思議なのは八幡宮・安養寺の他に、月窓寺、蓮乗寺、光専寺と1社4寺もあること。吉祥寺村は南北合わせて61人の開墾者がいた。つまり檀家候補が61家、61家を4寺で分けるわけで、寺でも自活用に耕作したであろうが、将来的に経営が成り立つ見込みなどなかったはずだ。
 吉祥寺村の周囲に檀家候補となるような村や町はなかった。吉祥寺村が開墾されるに至る理由は、広く知られているように明暦3年(1657)正月の江戸大火である。江戸城本丸を始め諸大名の屋敷500余り、寺社300余り、蔵9000余り、500〜800町余りが焼け死者10万2000人余りとの記録が残っている。大火後、類焼を防ぐため道の拡張や火除け地の造成、大寺院を江戸の外縁部へ移設するなどの計画から、水道橋北側にあった吉祥寺門前町の住民が移住してきた。これが吉祥寺村の縁起である。

 
■安養寺門前の庚申塔
 4寺の不思議に加えて、開墾者に関するこんな説もある。その前に移住前の事情を述べておこう。吉祥寺門前町の罹災者は江戸近郊の農村へ移り住んでいたらしいが、大火の2年後の万治2年(1659)11月に、罹災者が移住していた江戸近郊の宅地はすべて武家地とし、町人は牟礼野の新墾地を代地として与えるとの令が下される。これには5年間扶持米を給付し、造宅費用を貸与するという条件が付いていた。希望者は勘定所へ願い出る応募方式だった。
 開墾の主導者は吉祥寺門前に住んでいた浪人たちだったそうだ。その根拠は安養寺にある庚申供養塔にあるという。寛文5年(1665)12月に建てられており、ここに武家らしい布施弾正、石橋新蔵、萩野松庵などの名前が記されている。この浪人たちが、ただの素浪人か、何か系譜ある浪人かは明確ではないらしい。
 さらに、こんな説もある。大火による罹災者たちが開墾する前に、すでに松井十郎左衛門という後北条氏に仕えていた武士が、主家滅亡後この地に来て耕作したとの旨が、蓮乗寺の墓碑銘に記されているという。ただし、その墓碑は吉祥寺村の名主を務めた松井氏8代目のもので、客観性に乏しい。
   

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 百聞は一見にしかず、関連するものを見に行くことにした。左上の写真が安養寺にある庚申塔だ。
 
 まず庚申塔とは何か、説明が必要だろう。丙午(ひのえうま)の年に生まれた女性は男を喰い殺すとかいう話を聞いたことがあると思うが、庚申(かのえさる)も丙午同様に俗信の一つだ。庚申も丙午も干支(えと)なので60年に1回、1年に6回この日やってくる。庚申の俗信は、この日の夜に眠ると寿命が短くなるというもので、江戸期に大流行したらしい。村人の情報交換の場ともなったであろうが、この日眠らずに3年18回続けると、それを記念して庚申塔を建てるのが習わしだった。
 長寿の他に五穀豊穣、家内安全などを祈願して、写真のように文字だけのものから三猿(見ざる聞かざる言わざる)の上に観音様が乗っかっているようなものまで色々あったようだ。
 さて、検地の翌年寛文5年に建てられた庚申塔は、左側の文字だけのほうである。右写真を拡大してもらうと、右上隅に布施弾正、左上に石橋新蔵と萩野松庵の文字が見える。他に、「お勝」「お花」の文字が見える。庚申が「甲辛」となっている。苗字があるから以前仕官していた武士、つまり浪人と判断したのだろうか。わたしには、どうも武士とは思えないのだが。
 
 右側の庚申塔は、「享保4年」「吉祥寺新田村」の文字があったので、記念に撮って来たもの。吉祥寺村も検地当初は吉祥寺新田村と呼ばれていただろうが、享保4年(1719)は検地から55年経っており、これはわが中町の江戸期の住民たちが建てたものと思う。

 
■蓮乗寺の墓碑 画像拡大
 次に松井十郎左衛門の墓碑銘である。十郎左衛門は松井家の代々の通称のようだ。吉祥寺村の検地の際、北側で唯一均等割の1.5倍の区画を割振られている十郎左衛門が松井家の祖先と思われる。ちなみに南側で均等割りより広い区画を持っているのは、「甲辛」塔に名前が見える石橋新蔵である。
 墓碑には横に大きく篆刻文字で「仙路翁墓碑銘」と刻んである。仙路翁という号も俳諧を好んだ人というより本草学を好んで学んだ人の趣きを感じさせる。墓碑銘の内容は顕彰的なもので吉祥寺村の名主として大いに尽力したと記してある。また、先祖が小田原北条氏に仕官しており、主家が滅亡したことによってこの地に来て開墾を始めたということも記してある。
 この仙路翁という人は天保6年(1835)に73歳で病没している。吉祥寺村の検地から171年後である。
 後北条氏に仕官していた云々は措いておくとしよう。ただ気になるのは、吉祥寺門前町の住人たちが開墾するより早く、松井十郎左衛門が開墾していたということである。
 吉祥寺村周辺の地は開墾以前は、「牟礼野(むれの)と呼ばれていた。牟礼村(三鷹市)という地名は江戸期以前の永禄年間(1558-1570)からあった。北条氏直に仕えた高橋康種が開いたと伝えられ、水田もあったそうだ。牟礼村の周辺には湧水を水源とする仙川が流れているから、畑だけではなく水田が可能だったのであろう。
 これに対して吉祥寺村の周辺には川が流れていない。井の頭池はあるが高低差は10bほどある。昇り降りを繰
 
■月窓寺の正保2年の墓
り返して水汲みすれば畑作は可能だろうが、あえて開墾するには無謀すぎる。吉祥寺門前町の住民が開墾を始めるのは万治3年(1660)からで、この頃には玉川上水が承応2年(1653)に開削されて分水を利用できた。だが、それ以前は至難であろう。早いといっても、上水開削から開墾開始までの数年程度のものではなかったかと思う。
 吉祥寺村と同様の理由で神田連雀町(連雀町の連雀は連尺の当て字で行商人が住んだ町)から移住して、現在の三鷹市下連雀を開墾した連雀新田の名主松井治兵衛は寛保2年(1742)に記した「武州多摩郡野方領連雀新田之濫觴」の中で、「江戸町内には空地之無き候由仰せ付けられ、武蔵野御札茅場千町野の内にて」と書いている。「御札」とは「幕府御用之茅」という立札を指し、「千町野」はその広大さを表現している。つまり、「牟礼野」とは、茅が生茂る広大な野原だったわけである。開墾している者なぞ一人もいなかったと思えてくる。 

 右の写真は月窓寺にある墓で、正面に、「天暁院殿月窓妙清大姉」と刻んである。この戒名は江戸期では最上級の女性に付けられたものと推定される。位号の「清大姉」は社会的地位が最上級の女性に付けられ、院号の「院」は皇室・摂関家、「院殿」は武家の最上級に付けられたとされる。よって墓は徳川家ないしは有力大名家の婦人のものと思われる。
 墓の写真を掲載したのは側面に「正保二年写真クリック拡大の刻みが見えるからで、月窓寺にこの墓があるのはこの地が正保2年(1645)以前に開墾されたことの証しになるのでは、と思ったからだ。
 ところが、月窓寺は吉祥寺村に井の頭池東岸から移転してきたとの言い伝えがある。その頃は東岸寺といったそうだ。天暁院殿の戒名の中に月窓の二文字があり、たぶん天暁院殿が亡くなった正保2年を境に改名したと思われる。見出しを変え、1社4寺・浪人開墾の不思議に迫ってみたい。