■主君「押込(おしこめ)」 下野黒羽藩の11代当主大関増業(ますなり)は、文化8年(1811)に藩主に就くと藩財政の建て直しに取り組み、殖産興業や機織・染色・薬学・医学・兵学の研究を進めるも失敗に終わり、家中からの排斥運動が沸き起こり、文政6年(1823)に増業は隠居させられてしまう。 安政3年(1856)には増式(ますつね)が14代藩主に就く。11代増業と同様に増式も婿養子だった。増式は13代藩主増昭の妹お鉱の婿となるのだが、万延元年(1860)8月に離縁してしまう。これに対し家中に隠退運動が沸き起こった。しかし、増式はこれを拒否する。 万延2年(1861)正月18日(この年の2月19日から文久元年)、家老の益子右近・滝田典膳・村上左太夫・風野五兵衛の4名が増式の寝所へ赴いて押し込め申し上げる段を宣告し、増式の大小刀を取り上げた上で、その身柄を大目付・物頭・側用人の三役へ引き渡し、座敷牢へ監禁したのであった。増式は同年隠居の処置が採られ、廃藩置県に至るまで禁を解かれなかったという。
元文2年(1737)、当時の三河岡崎藩(幕末は山形藩)の藩主となった水野忠辰(ただとき)は、藩財政改革にあたって自ら率先して倹約を励行し、5万両を蓄えるほどに成功する。忠辰はこれに満足せず、家格による藩の職制の改革へと歩を進める。 藩の職制は、家老・年寄・用人・勝手掛(かってがかり、年寄兼任)・郡奉行(こおりぶぎょう)・勘定奉行・目付・小姓・馬廻(うままわり)・勘定役・徒士(かち)・足軽となっており、藩政の中枢を担う家老の定員は三名で、拝郷・水野・中村の三家の世襲独占であり、年寄は定員五名で二本松・山田・水野・鈴木・松本の門閥家、稀に中級藩士から任ぜられ、用人の定員一名は年寄ないしはその分家から任命されていた。 これら従来の職制に対し、忠辰は中級藩士以下の家臣を登用して側近を固め、改革政治を進めて行こうとした。延享3年(1746)11月には忠辰の命に服さなかったとして、家老の拝郷源左衛門が罷免・隠居、年寄の松本頼母・鈴木弥右衛門も隠居を命ぜられる。 寛延2年(1749)元旦になると、岡崎在城の忠辰は家臣と共に年賀の式を行うが、家老の水野三郎右衛門ら三名は病気と称して登城せず、翌二日は重臣一人として出仕しないという異常事態となった。重臣層との睨み合いが続いたが忠辰が折れ、中級藩士以下で固めた忠辰の側近層の解任という形で事態の終結をみる。 重臣層に敗北した忠辰は、その後は政治に厭いたように新吉原で金銭を蕩尽する。寛延4年(1751)9月(この年の10月27日から宝暦元年)には忠辰の生母順性院が、忠辰の反省を促すために自裁するが、四十九日の内にも遊興する状態だった。同年10月11日、江戸屋敷にあった忠辰が順性院の墓参と称して供揃いして表居間へ出た際に、年寄の牛尾四郎左衛門ら三名が「御身持ち宜しからず、暫く御慎み遊ばさるべし」と宣告、目付・小姓の者たちが忠辰の大小刀を取り上げ、座敷牢へ押し込めたのであった。幕府へは、忠辰は病気と届け出、翌宝暦2年3月に隠居となった。
主君の権威・権力は近世江戸期においては、大名の権威・権力が絶大だというのは事実である。しかし、上記したように、主君の振る舞いが家中や領民に災厄をもたらし、諌めても改まらない場合には、家臣団によって主君の身柄は拘束・監禁され、隠居・廃位させられるというのも事実なのである。
※参考文献:「主君[押込]の構造」(笠谷和比古著
平凡社)ほか |