■大名の類別 ■血と臣従 下の表は新井白石が6代将軍家宣への進講案として、諸大名家の事績を系譜的に著した「藩翰譜」による分類に従ったものである。家康に血縁的に近い家から順次並べているのが判る。藩政の中枢にある者はそう諸大名家を捉えていたのであろう。 ※参照文献 「近世武家社会の政治構造」(笠谷和比古著 吉川弘文館)
家門 ■詰席 江戸城に登城した際に大名が控えている部屋である。殿席とか伺候席などとも言う。上記と下記の官位を合わせた総合的な基準であり、江戸時代において最も知られた類別と言えよう。 大廊下おおろうか 格式が最も高い部屋。部屋は二つに区分されており上の間に御三家、下の間に加賀前田家。後に越前松平家が加わり、文化・文政期以降にいくつかの家が将軍によって配置された。 大広間(おおひろま、ではなく、おおびろま) 家門・外様の内、四位叙任の大名が控えた。 柳間やなぎのま 10万石未満の外様大名が控えた。100前後の家があった。 黒書院溜間(くろしょいんたまりのま、俗に「松溜」と呼んで大広間の「溜」と区別した) 彦根井伊・会津松平・高松松平の三家が定席。他に老中経験者の大名家が配置されていた。幕政の重要案件や老中の任命などに関して将軍の諮問にあずかったり、老中と協議することもあった。定められた詰日はなく、5〜7日に一度登城して老中と面談の機会をもったと言われる。 帝鑑間ていかんのま 松平庶流大名と家康の祖先の時代からの家臣や家康時代に版図拡大に尽力した在地家臣の家が控える。本来の意味での譜代で、雁間・菊間の譜代大名と区別される。 雁間(がんのま、ではなく、かりのま) 交代で毎日この部屋に詰める責務があったことから、「詰衆」と呼ばれた。実務の才によって新しく大名に取り立てられた者が多い。老中、京都所司代、大坂城代、寺社奉行など幕府役職への就任頻度が高く、石高加増の機会に恵まれたため、帝鑑間から雁間へ移動を願う家もあったと言う。 菊間きくのま 雁間と同様に「詰衆」だった。2万石以下の陣屋大名が控えた。 ■官位 大名の官位は幕府の裁可を経て京都の朝廷から叙任される。五位の者は幕府の高家(こうけ、儀式担当・幕府の対朝廷外交官)が京都へ年頭慶賀に出向いた時に、叙任の位記(位階授与文書)・宣旨(せんじ、天皇の言葉を伝える文書)をまとめて持ち帰り、これを江戸で本人へ交付した。四位以上は、京都所司代宛ての官位奏請の奉書を幕府老中から大名へ交付し、大名はこの奉書を使者によって京都へ送り、所司代の許可を経て朝廷の武家伝奏(ぶけてんそう、朝廷側の渉外担当)から位記・宣旨を受ける、という手続きをとった。 大名の序列は四位以上に限り、朝廷官位の上下が優先し、石高ではなかった。同一官位の場合は先任の順。江戸時代も4代将軍家綱の頃になると、各大名家の極位極官が定まってくる。つまり慣例化し、大名が幼少で無位無官であっても、家としての極位極官から席順が決められていた。 大名家にとっては官位官職は重要な序列基準であったが、有名無実なもので従四位下左近衛権少将(じゅしいげさこんえごんのしょうしょう)に叙せられたからと言って禁中を警衛したわけではなく、また出羽国の藩主が上総介(かずさのすけ)に叙せられても上総国の国政にあずかるわけではない。武家はあくまでも員外であった。大名がこだわったのは、江戸城における諸種の儀典における席順の他、服装や乗輿、鞍覆い、屋敷の形式など一見して家格が判別できるからである。 主な家の極位極官を挙げると、御三家の尾張・紀伊家は従二位権大納言(じゅにいごんだいなごん)、水戸家は従三位権中納言(じゅさんみごんちゅうなごん)、家門では会津保科松平・越前松平家が正四位下中将(しょうしいげちゅうじょう)、水戸支流の高松松平が従四位上中将(じゅしいじょうちゅうじょう)、あとの家門は従四位下少将。外様国持大名の加賀前田家は従三位参議、薩摩島津・仙台伊達家が従四位上中将、あとの外様国持は従四位下少将あるいは侍従。 譜代大名は彦根井伊家の正四位上中将は別格だが、老中・京都所司代になると従四位下侍従へ叙任や、10万石クラスの大名で叙任後30年ほど経ると従四位下(俗に四品=しほん、と言う)へ昇進することを特例とすれば、概ね譜代・外様とも従五位下(じゅごいげ)が一般的であった。 官職の上下関係は上から順に、大納言、中納言、参議、中将、少将、侍従、四品、諸大夫(しょたいふ)となる。官位との対応は大雑把に、大納言が二位、中納言〜中将が三位、少将〜四品が四位、諸大夫が五位。ちなみに徳川将軍は大臣で二位である。 ■大名の生活 ■叙任をめぐる大名のエピソード ここから「大名の生活」に入る。 備前岡山の国主大名、4代藩主池田綱政は、一族の因幡鳥取の国主大名、4代藩主池田綱清の官位官職が大いに気になっていた。備前岡山・池田家の藩祖は輝政、2代は輝政の嫡男の利隆が継ぎ、利隆は家督相続した慶長18年(1613)に弟の忠継に10万石を分与している。そして忠継は因幡鳥取・池田家の藩祖となる。 もう少し説明を要する。 備前岡山の藩祖池田輝政の話から始める。信長・秀吉に仕えていた池田輝政は、三河吉田15万石余りを領していた。輝政は初め中川瀬兵衛(清秀、豊後岡7万石中川家の家祖)の娘・糸子を正室にしており、糸子からは嫡男の利隆が産まれていた。徳川家康は輝政を豊臣陣営から自軍に引き入れるため、自分の次女富子を強引に輝政の正室として押し付けて来た。輝政は圧力に抗し切れず、糸子を病気療養の名目で実家へ帰した後、遂に離婚して富子を継室に迎えた。家康の娘婿となった輝政は、関ヶ原の戦では東軍の先鋒として活躍したことにより、慶長5年(1600)、播磨姫路52万1300石に封じ゚られる。 慶長7年(1602)、備前岡山に28万200石で封じられていた小早川秀秋が急死、世子がいなかったため封地が収公され、28万200石は輝政の次男忠継(当時5歳)に与えられた。慶長15年(1610)には3男忠雄、(ただかつ、当時9歳)に淡路6万3600石が与えられる。次男忠継と3男忠雄は家康の娘富子が産んだ子である。二人共幼少で姫路の輝政のもとに居住していたため、池田家は合計86万石余りとなった。 慶長18年に輝政が死去すると、嫡男利隆が相続する。形の上では弟忠継に10万石を分与ではあるが、忠継はすでに備前岡山28万200石を与えられていたのであり、実質的には42万石に減封させられたのである。この時点での3兄弟の所領石高を整理すると、 嫡男利隆→播磨姫路42万石 次男忠継→備前岡山+西播磨の一部38万石 3男忠雄→淡路6万3600石 播磨姫路を継いだ嫡男利隆が33歳で元和2年(1616)に急死する。世子の光政(当時9歳)が相続するが、幼少との理由で10万石減らされて因幡鳥取へ32万石で転封させられる。一方、備前岡山+西播磨を領有した次男忠継は元和元年に17歳で急死。これによって備前岡山は忠継の弟で淡路を領していた忠雄が継ぎ、西播磨はその他の3人の弟で分封することになる。忠雄が領していた淡路は幕府が収公し、忠雄は備前岡山31万5000石に封じられたのである。この忠雄が寛永9年(1632)に死去すると、世子の光仲(当時3歳)が相続するが、幼少のため因幡鳥取へ32万石で転封。因幡鳥取の光政は入れ替わりに備前岡山に5000石減らされた31万5000石で転封となり、以後明治まで移動することなく続くのである。 話を戻そう。備前岡山の4代藩主綱政は、徳川家の血筋が入っていない池田家の当主なのである。綱政がライバル視している因幡鳥取4代藩主綱清との藩主就任年度などを比較してみよう。両家は共に将軍から名を一字もらい松平の称号を許され、詰席は大広間で極官は従四位下少将である。異なるのは元服時に部屋住みの場合の初官が、因幡鳥取は従四位下侍従、備前岡山は官職なしの従四位下であった点のみ。 綱政 綱清 寛永15年(1638)生まれ 正保4年(1647)生まれ 母は播磨姫路15万石本多忠刻の娘 母は紀伊55万5000石徳川頼宣の娘 寛文12年(1672)藩主就任 貞享2年(1685)藩主就任 評判は良くなく、愚か者 評判は良くなく、粗忽者 綱政のほうが9年齢上で藩主となったのが13年早い。当然、侍従へ叙任されたのも綱政のほうが8年早かった。しかし、少将への叙任は綱清のほうが早かったのである。綱政の頭の中は Why is it? であったろう。さらに、嫡男の初官への不満もあり、綱政の昇進運動が始まる。 上に記したように備前岡山の元服時部屋住みの場合の初官は従四位下であるが、綱政は元服時部屋住みながら従四位下侍従に叙任されていた。これが前例となればライバルの因幡鳥取と同様となるわけだったが、嫡男の吉政の元服時の初官は従四位下であった。吉政は元禄8年(1695)に死去するが、武家の官位叙任の慣例を記すと、吉政は元禄5年12月15日江戸城へ登城し元服・従四位下に叙任され、元禄6年正月30日に作成・発行された従五位下と従四位下叙任の2通の位記をもらっている。同時に作成・発行されながら従五位下の叙任は元禄4年末と記されている。いきなり従四位下では具合が悪く文書上は順序の形式を踏んだわけである。 従五位下を持ち出したのは、嫡男吉政が亡くなった後で元禄9年、備前岡山の世継ぎとなった政順(まさより、当時1歳)の初官が従五位下の位記だけだったからである。昇進運動のターゲットは御側用人柳沢吉保(当時は保明)に絞り込んで展開する。御側用人とは直接将軍に接して将軍を補佐する役職、待遇は老中並みで将軍の寵遇の深浅によって権勢に差異が生じた。柳沢吉保の場合はその待遇は老中の上であり、内外の政治事項に関わったと言う。 元禄9年9月、綱政は柳沢へ願書を提出する。要点は以下。 A倅・政順の初官が地下(じげ、諸大夫=五位)では池田家として前例がなく、先祖に対してまことに面目ないこ とである。 B備前岡山の池田家が一族の「惣領」であり、因幡鳥取の池田家は「庶子筋之家」である。この筋目を幕府も認 識してほしい。 願書を受け取った柳沢は、綱政の願書を添削した。原型を留めぬほどの添削であったと言う。綱政はこの添削された願書を柳沢から提示され、添削通りに書き直すように指示される。それに従った綱政は4日後に再度願書を柳沢へ提出する。この願書で強調された点は以下。 Aこれまでの将軍の御厚恩に感謝し、少将昇進を許してもらえれば「一生之御大恩」である。 B幕府へは今後、「如何様之儀にても御奉公」を誓い、御奉公にあたっては柳沢の指導に従う。 初めの願書は自分の家の家格ばかりに言及していたが、後の願書は幕府への恩を述べている。大名と幕府の官位官職に対する見解の相違である。しかし、両者とも朝廷については言及はなかった。名分論にもとづく尊皇意識は水戸藩を除くと、この当時はなかったと言える。ともあれ、綱政は少将に叙任されたのであった。世継ぎの政順は13歳で死去。この昇進運動でどれほどの金銭が動いたかは判らないが、明和期(1764-1771)の島津家をライバル視する伊達重村の官位昇進運動の際、まだ側用人になっていない田沼意次の家の用人・井上寛司へ、意次との面談斡旋料として銀子10枚を贈っている。 江戸時代は何かにつけ贈答という名目で銀子10枚が贈られるのだが、これは丁銀10枚のことで丁銀1枚は43匁であるので10枚は430匁になり、金1両は銀60匁だから丁銀10枚は約7.2両となる。以上は公定相場での計算なので実際はアップする。現代に換算するとどうか。1両を現代の20万円と換算すれば144万円である。 柳沢は老中の上をいく側用人である。柳沢の懐へはかなりの額が転がり込んだと思われる。 |