幕府番方登用制度                                     江戸と座敷鷹TOP   江戸大名公卿TOP

 

■柴野栗山(しばのりつざん)という儒学者がいる。寛政改革を主導した老中首座松平定信の最大のブレーンといわれる。
 柴野栗山の略歴を紹介しておこう。
 讃岐国三木郡に元文元年(1736)に生まれる。10代後半に江戸へ遊学し、宝暦3年(1753)5月に湯島聖堂の林家塾に入門。宝暦13年(1763)、農村支配から幕臣管理にわたる政策論を10代将軍家治へ上書。明和3年(1766)9月京都遊学。翌明和4年徳島藩儒者に任用される。江戸詰め儒者として蜂須賀世子の侍読などを務める。天明8年(1788)正月、松平定信に招かれ幕府儒者となる。寛政9年(1797)に奥儒者(学者として最高の地位)へ転じるまで、寛政異学の禁の発布や素読吟味、学問吟味の創設などに参与する。通称は
彦助、栗山は号。尾藤二洲、古賀精里らと「寛政の三博士」と称される。文化4年(1807)12月1日に没する。

 教育史研究家の橋本昭彦氏によると、栗山が宝暦13年に建策したものが寛政改革の基本概念になっているという。
 栗山の幕臣に関わる建策の基本は、文武奨励であった。彼は次のようなことを述べている。
 「旗本の風儀が乱れているのは、突き詰めれば彼らが暇だからである、その暇を武芸の学習稽古に使えば、酒宴遊興に耽るようなことはなくなる。享保年間(1716-1735)に旗本惣領の番入り選考制度が導入され、武芸に熱心な者を優先的に任用するようになったのはよいが、武芸の吟味に課される騎射の術のみ修業する者が増えたに過ぎない。騎射は武士にとって遊びのようなもので実戦には何ら役に立たない。
 これからの番入り吟味は年齢制限を設けた上で、鑓術・剣術・弓術・馬術などの吟味をもし、騎射のみではなく諸武術を鍛錬している者だけを合格させるべきだ。また、現職の番士たちも1年に2回くらいは武術大会を開催して参加させ、さらに番士の中から武術の練達を選び、彼らを立ち合わせる将軍上覧試合を行えば、諸武術に出精するものが必ず多くなるであろう」
 これにより、寛延2年(1749)に出されていた、「十七歳以下忰共御番入願御請取被成間敷」(17歳以下の惣領が提出した番入り吟味出願書を受け取ってはならぬ)旨が、天明8年(1788)5月4日に徹底するよう再発布され、寛政3年(1791)10月には鑓・剣・柔術の上覧・見分について細かく規定した通達が出された。
 栗山はこんなことも述べている。
「幕府各部署の頭は、配下の者たちと親しき接するべきだ。時々は自分の屋敷へ呼び集め、軽い料理を出して忠孝の道や武道の古実について物語り合うなど、折々にふれて配下の者たちを観察してその長所短所を把握し、親孝行な好ましい人柄の者、器量才覚のある者、博奕遊興が甚だしい者、武芸達者な者などを適宜上申すべきである」
 これを受けて、天明7年(1787)9月、各部署の頭は文武出精の者をよく調べ出して、その姓名を報告したり役職登用に心掛けるように通達が出された。
 その他、栗山が提出した宝暦の上書の中には、幕府儒者の精選、湯島聖堂の講席充実、諸士の勲功を記した名鑑編集などがあり、これらは尾藤二洲、古賀精里らの新規登用、湯島聖堂林家塾の昌平坂学問所への改称改組、「寛政重修諸家譜」「孝義録(善行者の表彰事例をまとめたもの)の編集へとつながっていく。

 早い話が栗山・定信ともに、幕臣たちが文武修業を「立身の種」と認識し、強制しなくても「我勝ちに」進んで励む雰囲気の醸成を計ったのである。

■寛政元年(1789)7月21日、松平定信が惣領番入りに関する通達を出した。この通達が、以後の基本的な法規となったとされる。

 布衣以上御役人并御番方惣領之内、行跡宜諸芸出精候もの、御役方ニ而六七人程、御番方ニ而一組より一人宛成共可被召出旨享保九年被仰出、布衣以下御役人忰迄段々被召出、其後寛保之頃迄ハ四五ヶ年目ニ追々御撰有之候之処、寛延之度より諸役人諸番方とも一同ニ御撰有之候 而、其後再応之御番入迄は十ヶ年余も程過候仕来り之様ニ相成候付、其間は行跡芸術等宜相聞有之もの共も御番入御沙汰ニも不及候間、一同之励も薄く有之、且又年数勤ニ相成候父共も重而之御撰まてハ程隔候ニ付、終ニは年数之本意を達し兼候も有之候、依之近年之内ニは改而被仰出、以来は父之年数又は其身之芸術御吟味之上、追々程不遠様ニ可被召出旨之御沙汰ニ候之間、一統行跡相慎芸術等出精候之様為致可申候、且又父年数勤ニ而被召出当時部屋住勤之者ニ而も、行跡等不宜か又不束之儀有之ハ既ニ小普請入等被仰付義ニ候得は、勿論右体之者可召出様無之候之間、芸術之者は猶更之儀年数勤之忰ニ而も不行跡等之事候ハバ、其頭支配ニ而撰申立候義ハ見合置、追而慎相応之様子ニ成候ハバ其節は不洩様ニ可申立事ニ而候、然はたとひ一応御番入ニ洩候而も又無程再応追々之召出有之、慎行跡等相直候其詮も立候様ニとの御趣意ニ有之間、頭支配ニ而も得と其趣相心得、銘々親共も其心得を以専教示も行届候様ニ可心懸候
右之趣相達候間、二十年以上勤候者之惣領并其以下ニ而も芸術学問等格別出精致し候もの共人柄等能々相糺し頭支配有之面々は其頭々ニ而心掛撰置可被申候


 以下は意訳。
 享保9年に父親が布衣以上の現職の役方か、もしくは現職の番方の惣領の中で、素行が良く諸芸に励んでいる者があれば、役方から6、7人、番方から1組1人を任用する制度が始まった。これ以後、布衣以下の役方の子弟まで任用されるようになり、寛保期(1741-1743)までは4、5年おきに任用されていた。寛延期(1748-1750)には役方番方とも適齢になった惣領は皆任用された。ところが、それ以後の番入り試験は10年ほどの間をおくのが慣例となった。この間は素行良好で諸芸に励んでも機会がないことから、また、諸芸に励んでも父親の勤続年数が規定に満たないことから、熱心に番入りを目指して励む者が減ってしまった。

 しかし、10年の間をおくような悪しき慣例は、最近になって改まった。従って父親の勤続年数が規定通りか、あるいは本人の武芸の鍛錬度合を取り調べた上で、近い内に任用試験が行われることになろうから、番入りを目指す者は素行に気を付け諸芸に励んでほしい。
 各部署の頭に注意しておきたい。父親の勤続年数によって任用された
部屋住(家督相続せず)のままで勤務している者も、素行が悪くなり不都合なことがあれば小普請入りとなったし、諸芸に優れている者でも素行不良となれば任用されることはなくなったものだが、これからは諸芸に優れている者や、父親の勤続年数によって務めている者の素行が悪くなったとしても、すぐに上司へ届け出ないで暫く様子を見てやってほしい。
 その後にもし素行が良くなれば、番入り受験資格者として洩らさぬように申告し、たとえ受験候補者から洩れたとしても、間をおくことなく番入り試験を行なうので任用される機会はある。頭はその旨をよく心得、父親もよくよく心得て、子弟たちへこの旨が行き届くように心掛けてほしい。
 以上、右の旨を通達し、父親が20年以上勤続の惣領ならびに、父親の勤続年数が20年に満たない惣領でも、武芸学問において特別優秀な者がおれば、その人柄をよく糺した上で、各部署の頭は上申するようにしてほしい。

 これ以降、学問出精によって初めて番入りする惣領が登場してくる。例を挙げると、寛政3年(1791)8月8日の番入りで任用された森山与一郎がいる。与一郎は武芸や兵学の見分も受けているが、学問の見分で経書(儒教の経典)の講釈と素読の試験を受けている。同時に受験した他の9人の中には弁書(筆記試験)を受けた者もいる。
 与一郎の各試験日は次のようなものだった。

寛政3年1月21日 若年寄による「芸術見分」 若年寄病欠により延期
      2月 1日 若年寄による「学問 軍学見分」を出願
      2月 4日 若年寄による「芸術見分」(弓術)受験
      2月17日 若年寄による「芸術見分」(鑓・剣・柔・居合)受験
      4月 1日 若年寄による「学問 軍楽見分」受験
      8月 8日 番士任用決定

 寛政12年(1800)になると、番入り試験前に予備審査が行なわれる選考方式となる。予備審査は昌平坂学問所において受験者の父親が所属する部署の頭と学問所の儒者が行ない、その成績がよければ次の若年寄の役宅における見分に進めることになった。
 旗本の惣領の番入りにあたっての学問審査は、「部屋住学問試」といわれ、昌平坂学問所での予備審査を「部屋住内試」、若年寄役宅での本試験を「若年寄見分」と称したという。

■受験者松平誠三郎の例から、「部屋住学問試」の実際をみてみよう。誠三郎は書院番番士の父親兵庫助の惣領で、24歳の天保12年(1841)10月10日に受験願書である以下のような、「書目書付」を提出している(橋本昭彦著 風間書房「江戸幕府試験制度史の研究」129ページより)

                          御書院番本多日向守組
                           父勤続十四年
                            兵庫助実子 松平誠三郎(丑歳二十四)
 朱子学
  一、学問
     四書  
      小学    弁書
       詩
作仕候
               西丸御小姓組酒井肥前守組次郎大夫父隠居宮崎平四郎門弟
 右文政十三年寅年正月致門入当丑年迄十二ヶ年致稽古候
右之通御座候以上
  十月十日       大久保紀伊守(御書院番番頭)
誠三郎儀素読御吟味之上天保五午年十二月廿一日於学問所反物三反致拝領候

 以上の書目書付から判ることは、父親の勤続年数が14年でも惣領が受験できるようになり、それは天保期にはすでに慣例化したようだということ。四書と小学から出題される筆記試験(弁書)を希望していること。漢詩を作ることを希望していること。実力の程度は、西丸小姓組番士を務める宮崎次郎大夫の父親で、現在は隠居している平四郎に弟子入りして12年目になること。7年前の昌平坂学問所の素読試験で反物を3反(1反は大人の着物1着分の布)をもらっていること。
 書目書付を提出した2日後に昌平坂学問所で内試が行なわれる。提出・実施の間隔が短いのは、受験者が誠三郎と小十人番士の惣領糸川泰太郎の二人だけだったためか。
 試験内容は、誠三郎へは論語から雍也篇第一章「子曰、雍也可使南面。仲弓問子桑伯子。子曰、可也簡。仲弓曰、居敬而行簡、以臨其民、不亦可乎。居簡而行簡、無乃大簡乎。子曰、雍之言然」の解釈が出題された。詩作の題は「観楓」である。
 泰太郎の年齢・願書内容は判然としないが、
彼には孟子の盡心篇上「公孫丑曰、道則高矣美矣、宜若登天然、似不可及也、何不使彼爲可几及、而日孳孳也。孟子曰、大匠不爲拙工改廢繩墨、羿不爲拙射變其彀率、君子引而不發、躍如也、中道而立、能者從之」の解釈が出題された。
 弁書に出題された問題に二人がどのように解答したか知らないが、事典で調べてみると以下のような意味内容となる。
 
誠三郎への問題。
 雍(よう)は人の名、通称は仲弓(ちゅうきゅう)
孔子は、雍は君主となるに相応しい人物だと言った。その雍=仲弓が子桑伯子の人物について尋ねた。孔子は、細事にこだわらぬ大雑把な人物だと言った。仲弓は、人に対して大雑把というのなら判りますが、自分に対しても人に対しても大雑把というのは、締まりがなくなるのではないでしょうか、と言った。孔子は、そなたの言う通りだと答えた。
 泰太郎への問題。
 
公孫丑が言った。「聖人の道は高くて美しい。だから、そこへ達するのは、ほとんど天に登るようなものでとても難しい。私たちにも登れるように、規準を下げてもらえないでしようか」。孟子が答えた。「大工の棟梁は、下手な弟子が墨縄の使い方が難しいと言ったからとて、その使い方を変えたりはしないし、羿は弓を射る遣り方を変えたりはしないものだ。君子は気合を込めて中庸の道に立って人を導くので、その教えを辛抱強く学ぼうとする者だけがついて行けるのだ」
 弁書は意味内容と教訓などを説明させるもの。さて、二人の成績である。仮に評価基準をABCDとする。ABは若年寄の見分へ進める、Cは科目によって若年寄の見分を受けられ、Dは不可とする。二人はBで通過したのだった。
 若年寄の見分は10月14日に行なわれ、林大学頭や儒者などが臨席した。見分では弁書・詩作の難易度の高い問題が出される。評価は上中下で、上は学問の成績が優秀なので合格、中は科目によって優秀なものがある場合、父親の勤続年数を加味して合格、下は成績不良であり父親の勤続年数も長くないので不合格。
 誠三郎は中であったが、泰太郎は下で不合格だった。
 情実が当たり前のようなこの時代にしては、公正な試験だったといえそうである。

■番入りに関しては以上で終了である。
 さて、現代でもそうだが、就職試験において関連する資格を取得しておくと有利だといわれる。有利に働く資格ほど難しいもので、江戸期では「学問吟味登科済」がこれにあたる。
 学問吟味が創設されるきっかけは、寛政3年(1791)7月27日の若年寄安藤対馬守から儒者たちへの通達である。おそらく柴野栗山と林大学頭による事前の根回しがあったものと思われる。通達の内容は、学力のある者を各部署の頭から推挙させ、湯島聖堂(寛政9年に昌平坂学問所に改称改組)において目付の立ち合いの上で儒者が試験をする、というものであった。
 同年10月になると、目付の名によって学問吟味の通達が出され、受験願書の書式が発表される。科目は経書・歴史・経済之書・講釈・作文があり、受験者が受験科目を申告するもので、翌寛政4年9月には早くも実施されるのだが、第1回学問吟味は目付と湯島聖堂儒者の間で成績評価基準の折り合いがつかず、また松平定信からも異論が出たため、285人が受験した第1回学問吟味は無効となった。
 第2回学問吟味は寛政6年(1794)2月に行なわれた。受験科目は経科・歴史科・文章科の3科があった。ただし、経科は初場・経科前場・経科後場の三場から成っており、経科初場(論語・小学から出題)は予備試験の位置づけで、これに合格しないと本試験の経科前場・経科後場へ進めなかった。選択制であったため、漢学上級者でないと答えられない歴史科や文章科の受験者は少なく、経科初場の予備試験から本試験へ進もうとする者が多かった。
 成績評価は甲科・乙科
・丙科が及第、それ以外は落第。甲科と乙科の及第者は「登科済」の者とされ、丙科の者は次回も挑戦して甲科・乙科で及第することが期待された。及第者には成績と身分に応じて褒詞と金品の褒美が贈られた。丙科は褒詞のみだった。
 実質初回となった第2回学問吟味には237人が受験し、甲科及第者5人、乙科及第者14人、丙科及第者28人の結果であった。甲科及第者におけるお目見以上の首席は小姓組番士遠山金四郎(景晋)、お目見以下の首席は徒衆大田直次郎(南畝)であった。
 遠山景晋(かげみち)は桜吹雪の町奉行金さんの父親である。彼は31歳での受験、大田南畝(なんぽ)は46歳での受験だった。学問吟味には及第者を登用する規定はなく、金品の褒賞だけであった。が、人情というものがある。受験者は登用を期待し、幕府・聖堂側も期待に応じようとするものである。
 遠山景晋は小姓組番士から徒頭、長崎奉行、作事奉行、勘定奉行へと昇進を重ねていく。大田南畝は徒衆から支配勘定へと、従来より給与が30俵増えただけだが、昇進と見なせよう。大田の場合は昇進を阻む事情があったから、支配勘定のすぐ上の役職である勘定(お目見以上)へ進むことはなかった。
 
 学問吟味は寛政4年の第1回から慶応4年(1868)の第19回まで行なわれた(文化3年の第6回と文政元年の第7回の間の11年間は財政難で中断、それ以外は3年から5年に1度の間隔で実施)。混乱した第1回と第19回を除く17回に及第者を選出し褒賞している。この17回の甲科・乙科及第者は延べ481人を数える。身分別にみると、旗本309人(64.2l)、御家人172人(35.8l)。身柄別では当主208人(43.2l)、惣領202人(42l)、次男三男など71人(14.8l)。1回あたりの受験者数は200人から300人の間、傾向として中断以前は当主が多く、以後は次男三男などが多くなっている。

■学問吟味の制度が始まった翌年の寛政5年から「素読吟味」が開始される。学問吟味同様に幕府が主催し、湯島聖堂の儒者が担当したもので、及第者には金品が褒賞された。
 
■古事類苑・素読吟味図 クリック拡大
 素読吟味は、四書五経に小学を加えた書物の中から一つを受験者が選んで、幕府目付と聖堂儒者で構成される審査員の前で読み、合否を決めるものである。読み方については、朱子学派の訓点に従っているかどうかなどの細かい決まりがあったようである。
 受験者の年齢は当初は15歳以下とされたが、寛政9年以降は17歳から19歳までが素読吟味の対象年齢とされた。幕末の慶応3年(1867)まで毎年開催されたようで、幕府教育の基礎課程として根付いていったといえよう。受験者数は毎年100人余りであった。
 幕府としては素読吟味で及第したら、学問吟味に挑戦してほしかったようで、天保12年(1841)に若年寄堀田摂津守が素読吟味及第で慢心し、その後の目標とすべき学問吟味受験を目指す修業を怠っていると、目付に通達を出している。たぶん、目付は各部署の頭へその旨を令達したと思われる。
 素読吟味を及第すると昌平坂学問所の寄宿稽古人になる入学試験が免除されたという。寄宿したい者には利点だろうが、通いの稽古人には試験はなかったから、大した利点でもない。他に利点を挙げるなら、すでに上記した松平誠三郎のように、番入り試験の願書に素読吟味に及第して褒賞されたことを記し、自分の学問修業の付加価値とすることくらいだろうか。


※湯島聖堂
 林家(りんけ)の祖・林羅山が寛永7年(1630)に3代将軍家光から上野忍ヶ岡に土地を拝領し、聖廟先聖殿に孔子を祀り桜峯塾(おうほうじゅく)を開設したことに始まる。元禄3年(1690)に5代将軍綱吉によって本郷湯島に移され幕府の庇護を受ける。敷地面積は7600坪ほどあったというこの頃の呼び名は「聖堂学舎」。寛政9年、学制改革により敷地面積1万1600坪ほどに拡大し、正式名称「昌平坂学問所」となる。昌平黌(しょうへいこう)は通称。これまで林家の私塾だったが、この年より幕府の学問所となった。講義は三種に分けられるが、特に「仰高門日講」(ぎょうこうもんにっこう)は天明7年9月の寛政改革開始年月から開始されたもので、毎日講義が開かれ、講義は浪人や庶民にも開放されていた。名称が堅苦しいが、これは仰高門という門を入った右手の東舎が教室になったことによる。

※尾藤二洲(びとうじしゅう) ・古賀精里(こがせいり)
 
尾藤二洲(1747-1813)は伊予川之江の商家の生まれ、幼少時に脚が不自由となり勉学に励む。寛政3年に湯島聖堂(昌平坂学問所)の儒者となる。
 古賀精里(1750-1817)は
肥前佐賀郡古賀村の生まれ、父親は鍋島藩藩士。寛政8年に湯島聖堂の儒官となる。

※第1回学問吟味の無効
 
目付と儒者の評価基準の折り合いがつかなかった一例として、大田南畝の評価がある。儒者の柴野栗山は南畝の評価を上としたが、目付の森山源五郎は下とした。森山は、南畝は人格の点で幕府官吏に不適格と主張したらしい。栗山は純粋に答案のみから判断したのであろうし、森山は目付の職掌から南畝の前半生を重視したのであろう。南畝については以下参照。

※大田南畝の事情
 
大田南畝の生涯は前半と後半が、まったく異なる。南畝より40歳ほど若い国学者の足代弘訓(あじろひろのり)が著わした「伊勢の家苞」(いせのいえづと=伊勢のみやげの意)にこんな記事がある。「或る人の話、南畝老人は狂歌にて一徳一損あり。いかなる田舎までも赤良という名を知らざる人なきは狂歌の徳なり。役儀につきて勤功ありしゆえ、御旗本に召し出さるべき御沙汰ありしかども、狂歌師の四方の赤良といはれたる者を召し出されん事、同席の恥辱なりといふ論ありてその事やみたり。これ一損なり」。四方赤良(よものあから)は南畝の狂歌名、この名があまりに有名なため昇進できないと書いている。そのことは南畝本人も充分承知していた。将軍日光社参時に下賜された弁当籠に甲科及第の褒賞銀10枚を入れた折りに、その蓋に「御徒の職にありながら文筆三昧に耽ってきたのを恥じ、ここに賜銀を封じて自らを戒める」という内容の漢文を銘記している。
 南畝は甲科及第した2年後の寛政8年(1796)に支配勘定に任用され、文政4年頃まで隠居せずに働いていた。亡くなるのは2年後の文政6年(1823)4月。
75歳だったが、後半生は生真面目に働きづめだったといえる。彼が生き方を変えたのは、勘定組頭土山宗次郎が天明7年(1787)に死罪となったことであろう。土山には狂歌名があった。軽少納言という。天明初期の狂歌ブーム以前から狂歌の仲間入りをし、すでにその世界では有名な南畝と朱楽菅江(あけらかんこう)=本名・山崎景貫(かげつら 幕府先手与力)を特に好んで連れ回し、吉原の大文字屋(遊女屋)や深川洲崎の望汰欄(ぼうだら 高級料理屋)などで豪遊した。また、自分の屋敷を酔月楼と名付け、ここでも狂歌仲間と芸者を呼んで宴会をしばしば催した。
 勘定組頭の役高は350俵、役料100俵が付くが、決して人が羨むような生活ができる給与ではない。しかし、人が羨むような豪遊をした。土山が死罪となった公的な理由は、幕府買米金500両の横領だが、実際はそんなちっぽけな横領ではなく、幕府の蝦夷地開発に関わる利権がらみ裏工作資金が田沼意次、田沼に目をかけられて出世した勘定奉行松本秀持、松本から蝦夷通として目をかけられた土山、この三人に流れ込んだ事実を松平定信がつかんでいたからだと、わたしは考えている。
 田沼意次は天明6年8月に失脚、続いて松本秀持は罷免。土山だけが最も重い死罪となったが、これは派手な生活ぶりが嫌でも目立ったからで、見せしめには具合がよかったからであろう。土山は天明4年に吉原京町の大文字屋の遊女誰が袖(たがそで)を身請金850両、祝儀などを含めると1200両を払い、当時幕府高官の浪費として大評判になっている。加えて南畝も天明6年、吉原松葉屋の遊女三穂崎を身請けし妾にしている。土山が身請金を出してくれたのであろう。南畝のこの折の狂歌が、「我恋は天水桶の水なれや 屋根よりたかきうき名にぞ立つ」というのであるから、得意の絶頂だったと思われる。
 祭の後、つまり松平定信による田沼派の粛清が終わった後でも、南畝と土山との関係を取り沙汰する噂は燻ぶり続けたであろう。南畝が選んだ行動は、徒衆としてまっとうに勤務することであり、狂歌世界から遠ざかることであった。



註釈として付記
※番方・役方の勤務日程
 
番方は朝番・夕番・寝番(しんばん 宿直)の三交代制が基本だった。朝番は午前8時出勤、夕番は午前10時、寝番は午後4時であった。登城すると番帖に勤務日と姓名を記し、仕事の引き継ぎを行なった。両番と称された小姓組番・書院番の番士にはこの他にも仕事があった。登城勤番した日から3日目を供番(ともばん)といって、この日に将軍が外出すると、その供を務める。4日目は西丸勤番、5日目は大手門警固、6日目は将軍が外出すれば先供を務め、7日目は西丸勤番、8日目は明番(あけばん 休日)。
 役方の勘定所の事務官は日勤で毎日出勤していた。午前10時に出勤して午後2時に退出していた。休みは月に3、4日あったようだ。また番方役方が半ばするような小姓衆・小納戸衆は1日務めて1日休む当番制だった。登城当日は宿直(とのい)をする決まりで、午前10時に出勤して前夜の者と交代、その夜は城中に宿直して翌日の午前10時に次の者と交代して帰ったという。

※登城従者数
 
寛文6年(1666)7月に旗本の従者数の制限があった。「御触書寛保集成16」によると、200石は1〜2人の徒侍、300〜900石は2〜3人の徒侍、1000〜2000石は4〜5人の徒侍、3000〜4000石は6〜7人の徒侍、5000〜9000石は8〜10人の徒侍。軍役人数割とは関係なく、威勢を張るなという意味があったものと思われる。というのは、同じ年の4月に武家の嫁娶(よめとり)行列の制規が出されているからである。「徳川実紀」によれば、「輿添(こしぞえ)の牽馬(ひきうま)は10匹まで、従者の槍は20柄まで、各家から出す辻固めは侍2〜3人と足軽5〜6人、長柄・幕は不要、提灯は処々に2〜3を出す、在府の大名従者の牽馬2〜3匹、槍2〜50本まで」。
 理由はともあれ、これ以降、登城や江戸町中往還の際は歩兵侍の数は上記のようになった。が、槍持・草履取・挟箱持などの中間小者の数には言及しておらず、また、これらは格式・用途上から減らせないものでもあった。歩兵侍の数に準拠調整したのかどうかは分明でない。 
 旗本・諸役人の登城を見てみよう。まずは大手門外、内桜田門(現在の桔梗門)外、西丸大手門(現在の二重橋)外に立てられた下馬札のある下馬所に着いたら、主人は馬・駕籠から降りる。ただし、乗輿(じょうよ)以上の者(大名・役高500石以上の役人・高家・交代寄合・年齢50歳以上の勤仕人・寄合など)は降りなくてもよい。この先は供の数を減らし、乗輿以上の者以外は徒歩で向かう。下乗橋の手前に至ると日光門主・御三家などの他は駕籠から降り、供を規定数に減らして玄関へ向かう。
 元禄12年(1699)の規定では、布衣以上の役人・寄合などは侍2人・草履取1人・挟箱持1人(寄合は中之門の外に挟箱持を残す)を、布衣以下の役人・番士などは侍1人・草履取1人・挟箱持1人を、医官は侍1人・草履取1人・挟箱持1人・薬箱持1人を連れて玄関へ向かう。玄関を入るのは主人のみとなり、供の者たちは主人が下城するのを玄関横、下乗橋前、下馬所でそれぞれ待つことになる。中でも最も混雑したのが下馬所、暇にまかせて誰彼となく噂話で時間潰しをしていたことから、「下馬評」なる言葉が生まれている。
 江戸城内外の26の曲輪(くるわ)門の開閉時間は午前6時〜午後6時までと決められていた。土圭(とけい)の間の坊主が叩く太鼓に合わせて開閉された。

※旗本・御家人の身分は買うことができた
 
御家人の家格の一つに「抱席」(かかえせき)がある。世襲ではなく一代限りというもので、当主が退職すると原則としては御家人ではなくなるわけだが、実際はそうはならず、退職した当主の子息や近親者が改めて新規に採用される形で御家人の身分を確保することになる。
 こうした抱席の後任者の新規採用を「番代」(ばんだい)と称している。番代には色んなケースがあり、例えば当主が没した場合、子息が幼いと未亡人となった後家が再婚して再婚相手を後任者としたり、養子を取って子息が成長するまでの10年期限付きで番代にしたりする。
 御家人「株」というのも番代の一種で、当主が退職(死亡)したが後任者がいない場合、退職によって生じた欠員の後任権が株として、つまり御家人株として売り出されることになる。宝暦期(1751-1763)に西丸付きの徒の株が120両で売れた記事が「小石川御家人物語」に出ている。買い手は浪人・上層百姓・富裕商人であった。
 御家人株と同様に広く行なわれたのが、借財で行き詰った下級旗本による養子取り。ただの養子取りではなく、家政を立て直すことができる持参金付きの養子であった。



※参考文献:「江戸幕府試験制度史の研究」(橋本昭彦 風間書房) 「小石川御家人物語」(氏家幹人 朝日新聞社) 「旗本」(新見吉治 吉川弘文館) 「大田南畝」(浜田義一郎 吉川弘文館) 「随筆百花苑第八巻」(中央公論社)など