■寛政期(1789-1800)以降に版行された「御旗本武鑑」によると、旗本の総数は5169人、この内※役方(文官)に就いていた者は1290人ほど、番方(武官)が1760人ほど、小普請支配が1760人ほど、寄合が250人ほど、不明は110人ほどだったという。 小普請支配と寄合は無役であるから、役職に就いていた旗本は全体の59lである。 寄合は知行高3000石以上の無役の旗本、小普請支配は3000石以下の無役のお目見・旗本を指す。御家人を含めた3000石以下の無役を「小普請入り」といい、お目見以下を「小普請組」といった。つまり、小普請入りの旗本を小普請支配といい、小普請入りの御家人を小普請組といったのである。 ただし、小普請支配という役職があったので注意を要する。役職の小普請支配は3000石以上の旗本から選ばれ、小普請入りした者を管掌し、希望の役職などの訴えを聞き、役職の欠員があると推薦したりするのである。この役職・小普請支配の下に小普請組支配組頭という役職があった。これは小普請組から選ばれ、希望役職や特技、生活態度などを聞き出して書類にし、上司の小普請支配へ報告するのである。 役職ではない小普請支配の名称についてだが、おそらく御家人を編入した小普請組よりも格上であることから、支配役でなくてもそう称したものと思われる。 ところで、小普請支配と寄合は無役であったが、戦時には軍団として動員出陣となることからだと思うが、家禄はもらえたのである。当初は江戸城や幕府管轄下の建物を普請修理する人足を知行高の多寡によって供出していたが、延宝3年(1675)から人足供出の義務は金納となっている。 小普請入りには、3000石以上の者もいた。本来は寄合に編入されるべき格の者だが、これを御咎(おとがめ)小普請・縮尻(しくじり)小普請といった。過失を犯し役職を更迭された者である。こうした者は仕方がないが、泰平時の無職は辛かったであろうから、日々鬱々として芳しくないほうへ走りやすくなる。時代が下るにつれ、小普請入りは素行の悪い者たちの吹き溜まりと化していったようである。なお、病気・老衰ゆえの退職者や、幼少のため役職に就けない者も小普請入りしていた。
■小普請入りとなったら、本人はもちろん、その嫡男も将来を閉ざされた暗澹たる思いであったろうと推測できる。 旗本の嫡男、いわゆる惣領が役職務めを始めるのは、Aという役職に就いていた父親が老齢により引退し、これまで父親の保護下にあり「部屋住」(へやずみ)といわれていた惣領が、父親から家督の相続を受けた上で、(もちろんこの間家督相続を将軍より裁許されて)Aという役職の見習いのような役職へ召し出される。そして、何か不始末を起こすと小普請入りとなるわけだが、本項ではこうした一般的な家督相続しての番入りを扱わない。 扱うのは任用制度である。無役の小普請入りが役職に就いたり、小普請入りではなく役職に就いていても、もっと条件のいい役職へ登用されたり、いまだ現役務めの父親がいるにもかかわらず、相続するのではなく、惣領が幕府より任用され、親子が同時に幕臣として務めるというような採用の在り方を扱っていく。
さて、番入り=武官職に任用されるにあたっては、宝永6年(1709)まで選考基準はなかったようである。とはいえ、身分社会であったから家格を逸脱するようなことはなかったと思われる。教育史研究家の橋本昭彦氏は「仕官格義弁」(国立公文書館蔵)から以下のような記事を引用して、宝永6年までは旗本の子息は適齢に達すると、幕府は総じて番入りさせていたと説いている。
天和ノ已後ハ御人多ニ成候ニ付惣御番入モ段々遠ク罷成、元禄四未年十二月四日御役人惣領計被召出、宝永六丑年四月六日惣御番入以後ハ惣御番入ト申テハ無之候
意訳する。天和期(1681-1683)以後は役職の数に対して幕臣の数が多くなったため、徐々に適齢となった旗本子息のすべてを番入りさせることが減少した。天和期以後に多くの旗本の子息が任用されたのは、元禄4年(1691)12月4日に※布衣(ほい)以上の役方の惣領だけが番方に任用された例と、宝永6年4月6日に番方の子息のすべてが任用された例がある。それ以降は一度に子息のすべてが番入りすることはなくなった。 確かに、「徳川実紀」の宝永6年4月6日の条に、番方の惣領727人が新たに任用されたと記されている。時代は異なるが先の旗本総数に対して727人は14lになる。かなり高い比率である。 引用記事から知ることができるのは、天和期以前はかなりの頻度で旗本の惣領に限らず次男三男も番入りさせていたことである。次男三男も番入りさせたことは、それだけ分家したことを意味し、当然役職の席数が少なくなったわけである。 天和期以前は、「左様せい様」と呼ばれた4代将軍家綱の時代、譜代の名門酒井雅楽頭(うたのかみ)が大老職に就いて権力を握ったから、旗本・譜代に甘かったのかもしれない。これは憶測。 最後の大盤振舞いがあった宝永6年から15年後の享保9年(1724)4月15日、旗本支配の若年寄から番方、役方へ以下のような「達」(通達)があった。意訳する。 この度、番方の惣領の中で素行が芳しく、諸芸を熱心に学んでいる者を、1組から1人ずつ任用することになった。今回は書院番と小姓組の番方の惣領を任用する。一度に大勢を任用するのは難しいので、他の番方は順次任用していく予定である。任用を検討するにあたって提出する書式を示しておく。
書式 父の名 誰 何歳 1、人との交際が巧い点について書く 1、素行が芳しい点について書く 孝心が優れているなら具体的に書く 1、武芸の道を熱心に学んでいるなら、それぞれの武芸について師匠 名を付記すること 騎射大会に出場したことがあれば、評価された結果を書く 1、学問を熱心に学んでいるなら、それぞれの師匠名を付記すること
以上、普段からの言動の他に、武芸・学問も日常励んでいるかどうかが、任用の検討材料となったことが判る。 この達しから4ヵ月ほど(この年は閏4月がある)経った7月26日、惣領30名の任用が決まっている。内訳は布衣以上の役方の惣領11名、両番方の惣領19名だった。 任用にあたって、布衣以上の役方の惣領は若年寄の役宅において武芸の審査が行われ、両番の惣領は両番の番頭の屋敷において武芸の審査が行われ、合格した者にはその年から※切米が給与された。こうした武芸審査は初の試みだったようだ。 これ以降番入りの選考条件が定まっていき、対象となる惣領の父親の勤続年数は20年以上か、布衣以上。任用数は1組1人〜2人。書式にある学問は番方ゆえか重視されず、武芸の内※騎射が審査対象となった。ただし、学問は寛政の改革から重視されてくる。
※役方・番方 役方は側衆、留守居、大目付、町奉行、勘定奉行、奥右筆組頭(おくゆうひつくみがしら)などとそれらの下役を指す。戦闘員ではない文官職で、泰平時に活躍する役職。番方は大番頭(おおばんがしら)、書院番頭、小姓組番頭、新番頭、小十人頭(こじゅうにんがしら)などとそれらの下役の番士を指す。武官戦闘員であるが、平和時は江戸城各門の警衛や将軍外出時の警護にあたった。 側衆は将軍側近第一の役で老中待遇、※役高5000石。留守居は将軍不在時の江戸城責任者であり大奥の総取締役でもある。役高5000石。奥右筆組頭は老中の文案をすべて記録し前例を調べ事の当否を議する役、秘密の事に関わるため表右筆組頭より重要な役。役高400俵・役料200俵・四季施代24両2分が支給される。右筆は祐筆とも書く。四季施代は仕着せ代で仕事着代金の支給を意味する。 大番頭は江戸城二の丸の警衛と京大坂の在番を務める番士の長官、12組あり1組に4人の組頭+番士50人が属し、これに与力10騎+同心20人が付いた。1組84人の編成である。大番頭は役高5000石。 書院番頭は将軍警護と江戸城要所の警衛、駿府在番を務める番士の長官。6番(組)まであり1番に組頭が1人+番士50人が属し、これに与力10騎、同心20人が付く。西の丸にも4番あった。1番81人の編成。書院番頭は役高4000石。小姓組番頭は将軍警護を勤める番士の長官、役高4000石。6番まであり1番に組頭1人と50人の番士。与力同心は付かない。西の丸に4番あった。儀式の折に将軍の給仕を書院番番士と務めるが、書院番番士のように城外警護はしなかった。 以上の大番、書院番、小姓組番を「三番」と称し、書院番と小姓番を「両番」と称した。新番頭は将軍外出時に警護した。それ以外は城中の土圭(とけい)の間に詰めていた。6組あったが享保9年から二の丸に2組増え8組となった。1組に組頭1人+20人の番士で編成。新番頭は役高2000石。小十人頭は将軍外出時に警護する番士の長官。役高1000石。7組あり1組に2人の組頭+20人の番士の編成。 番士は武士であるから騎馬兵なのだが、小十人組の番士は歩兵であった。歩兵だがお目見であった。歩兵で思い出すのは徒組(かちぐみ)。将軍外出時に先頭に立って警護する役目だが、これはお目見ではない。諸藩ではお目見を武士=騎士とし、お目見以下を足軽=歩兵とするが、幕府ではお目見以下の与力を寄騎といって与力何騎と称したりする。一律にここが境目と幕府の場合は明確にできず、実に難しい。
※布衣(ほい) 江戸期の武家に六位の叙位任官はなかった。しかし、公卿の家来に「侍」がおり、これに六位を叙位していた。そこで幕府は六位に准じるものとして、無位無官の布衣と称する格席をつくったのである。五位のお目見は諸大夫(朝散大夫ともいう)と称していたから、四位の高家を除くと、旗本の格は上から、諸大夫、布衣、叙位されないお目見、となる。上記した役職では、側衆、留守居、大目付、町奉行、勘定奉行、大番頭、書院番頭、小姓組番頭は諸大夫であり、新番頭、小十人頭、奥右筆組頭が布衣である。また、大番・書院番・小姓組番の組頭は皆布衣である。 布衣は礼服の一つでもあった。礼服の狩衣(かりぎぬ)は四位が着るものだが、織目模様のない無文の地で仕立てた裏地のない狩衣を布衣といった。 礼服を格別に示すと、諸大夫は大紋、布衣も布衣、叙位されないお目見は素襖(すおう)となる。 ※切米 ここでは切米取りの意味ではなく、「庇蔭料」(ひいんりょう)という意味。庇蔭料とは家督を継いでいない部屋住の給与を指す。父親のお蔭で役に付き、受け取る給与ということである。本来の切米取りは蔵米取りとも称し、知行所をもたない旗本・御家人が幕府の米蔵から給与される年棒を指す。春・夏・秋の三季に分けて支給されるから切米の名称がある。また、「徳川実紀」や「寛政重修諸家譜」などでは「廩米」(りんまい)と称してもいるようである。細分化して、春・夏の支給を借米(かしまい)、秋を切米ともいったらしい。
※騎射(きしゃ) 馬に乗りながら的を射る馬術・弓術の複合の射術。競技に笠懸(かさがけ)や犬追物(いぬおうもの)などがある。笠の中央にボルト形のかなり突き出た部分のある綾藺笠(あやいがさ)を的にして遠距離から矢を射るもの。藺(い)はイグサの意味。 犬追物は逃げる犬を射る競技。鏃(やじり)は大きく、鋭いものではなかった。約160b四方の周りを竹垣で囲んだ馬場を造り、その中央部に半径2b余りの小縄(こなわ)と称する円を設け、この外側に小縄と同心円となる半径9bほどの大縄(おおなわ)と称するものを造る。さらにこの外側に半径16bほどの鏟際(けずりぎわ)を設け、ここに砂を敷く。 競技の開始は小縄に待機した犬を放し、射手はまずは大縄内で射る、これが外れたら鏟際内、あるいは鏟際外と追い詰めて射る。射る部分は決まっており身無腹(みなしばら)といった下腹部を狙った。射手36騎に150匹の犬が用意されたという。家光と吉宗の時代に行われたが、盛んではなかったらしい。笠懸、犬追物とも由来は平安時代。
※役高
・役料 ご承知だろうが念のため。家禄は家に付く俸禄なので役職に就こうが就くまいが支給される給与だが、役高はその役職相当の格式を維持するために支給されるもので、例えば役高1000石の役職に家禄600石の者が就くと、その差額の400石が役高として支給される。早い話が足高で、家禄1000石以上の者が就いた場合は支給されない。役料はその役職を務めていくのに掛かる運営経費として支給されるもの。従って、これは家禄の多寡に関係なく支給される。「役金」というのも同様である。
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