吉原という制度                                                    江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

吉原の町制

■新吉原の敷地面積は約2万8000坪、東京ドームのほぼ2倍の広さ
 
■新吉原 「江戸雀」より  クリック拡大
である。元吉原同様に北向きに大門(おおもん)を設け、敷地の外側を堀で囲んだ。堀の幅は寛文期(1661-1672)の頃に5間(約9b)、大溝(おおどぶ)と称したが幕末になると、「おはぐろどぶ」と呼ばれた。濁って黒かったからとも、遊女が化粧の際に鉄漿(おはぐろ)を流したからともいわれている。この外堀があることから郭=曲輪がイメージされ、吉原遊郭などともいわれる。
 大門を入るとメインストリートの仲の町(中之町とも書く)が水道尻(みとじり)まで続く。メインストリートの両側に町並があるのだが、元吉原時代と異なるのは、五町(江戸町一・二、京町一・二、角町)の他に、「揚屋町」(あげやまち)を新設したことである。
 揚屋町というのは文字通り18軒の揚屋を集めた町。揚屋は宝暦期(1751-1763)まで高級遊女と同衾するにあたって欠かせない見世(みせ)で、揚屋制度といわれた。客は揚屋に入り遊女を指名する。揚屋は指名された遊女のいる遊女屋へ遊女を借り受ける証書を出す。これを揚屋差紙(さしがみ)と称した。差紙の内容は以下。

今日客が御座候につき、その方の内のつまさき殿と申す女郎衆を昼の内雇い申し候、この客は右より御尋ねの御法度衆にては御座なく候、いかにも慥(たしか)なる人に御座候、若(も)し横合より御法度の衆と申す者御座候はば何方迄(どなたまで)も我等罷(われらまか)りいで申し分(わ)け仕(つかまつ)るべく候、後日の為件(くだん)の如(ごと)
戌五月五日                             宿主 久右衛門
                           月行事(がちぎょうじ)  長兵衛
庄三郎殿へ                                    

 月行事は毎月交替で町内の事務処理を担当する名主の代行役で、遊女屋の主人が務めた。
 さて、
証書を受け取った遊女屋は遊女を貸し出し、遊女は禿、新造、若者などを供に連れて揚屋へ向かう。これを道中と称した。揚屋に着いた遊女は初会(しょかい)なら、客に挨拶をしただけで遊女屋へ戻る。裏を返すと称する二会目は客は遊女と話すのみ。三会目で馴染みとなった客はやっと同衾できた。
 遊郭文化ともいえる揚屋制度だが、格式ばって面倒だと思う客が多かったようだ。費用も遊女の揚代だけではなく、揚屋の女房や使用人、遊女のお供連中への祝儀、酒肴代・手数料など高くついた。
 揚屋が盛んだった天和・貞享(1681-1687)の頃は20軒以上あったが、最後の太夫となった玉屋の花紫が宝暦10年(1760)に消えると揚屋も絶えてしまった。

■メインストリートの仲の町の行き止りである水道尻は、水戸尻とも書いた。ここには火伏の神・秋葉山常夜燈があった。江戸期には防火の神様として流行ったらしいが、なぜ「水戸」尻なのかである。
 新吉原の土地は以前水戸藩の塵埃の捨場だったという。塵埃を焼却したから防火の神様なのかどうかはともかく、新吉原になった後も月2回水戸家の目付同心が吉原町内を見回り、月行事の茶屋にて饗応を受けて帰るのを慣行としたという。
 こうした経緯を逆手にとる水戸家のよからぬ同心・足軽などが多かったらしく、彼らは葵紋が付いた状箱(手紙などを入れる)などを懐へ密かに隠して遊女と同衾し、翌朝金銭を所持していないと告げ、遊女屋の若者衆ともめ事となった折、わざと状箱を取り落としてみせ、若者衆が葵紋に慌てふためくや、大声怒号で水戸家の御用を妨げたりと言い放ち、結局勘定をチャラにして帰ったそうである。
 なにやら水戸黄門の下級版のようで笑える。ひょっとして水戸黄門の原作者はこの逸話をヒントにしたのでは?とも考えられる。
 話を戻そう。
 大門の外に次のような高札が幕府によって立てられた。

 1、前々より制禁のごとく江戸町中端々に至る迄、遊女の類隠し置くべ
   からず、若し違犯の輩有ればその所の名主五人組地主迄曲事
(く
    せごと)
なるべきものなり
 2、医師の外(ほか)何者によらず乗物一切無用たるべし
   附 鑓長刀門内へ堅く停止(ちょうじ 禁止と同意)たるべきものな


 新吉原のみが女郎遊びを許された地であると宣言し、2の箇条は悪党盗賊などを捕縛しやすいようにしたものと見なせる。
 大門横に門番所(面番所ともいう)があった。同心の手下の岡引(かなり多かった。下記の町費の項を参照)が見張り番・巡回警邏をし、隠密廻り同心が昼夜二人交替で出張していた。
 新吉原は山谷、浅草日本堤下(現在の台東区千束4丁目)に移転してきたわけだが、この土堤に向かって大門から五十間の道が三曲がりにくねって(将軍鷹狩御成の際に日本堤から大門が見えては畏れ多いと三曲がりにした)延びている。岡引は夜間この五十間道から土堤上までを警邏し、不審な者があれば捕らえて門番所に拘引した。遊郭内から盗賊など犯罪の訴えがあれば、遊郭内唯一の出入り口である大門を閉鎖して捜索にあたった。箇条から推して賊は袋の鼠だったと思われる。
 両刀は禁止されていなかったが、揚屋・茶屋・遊女屋では必ず預かる決まりであり、帯刀での遊興は禁止されていたから、大門を閉められたら賊が抵抗するのは難しかったであろう。遊女も逃げるのは困難だったはずだ。
 同心・岡引の毎日三度の食事は会席料理で、五節句には一人につき1000疋(銭10文が1疋 公定相場なら2両2分に相当)の目録を贈り、勤番の交替時には山谷から八丁堀まで舟で送ったという。これらの経費は新吉原各町の町費で賄ったようである。
 その見返りの一つとして、九ツ(夜12時)の時刻に四ツ(夜10時)の拍子木を打つことを許した。新吉原の夜見世は六ツ(夜6時)張見世に始まり4時間後の四ツで終了することに決まっていた。が、これでは短いので四ツには拍子木を打たなかった。2時間余分に営業を稼げたわけだ。町奉行所は黙認し、大門は四ツに閉めたが潜り戸は開けておいた。新吉原の偽の四ツを「引け四ツ」と呼んだ。


※新造
 禿(かむけろ)あがりの13、4歳の遊女見習。客は取らず高級遊女に付いて接客法などを学び、いずれ高級遊女の世話で「呼出し」女郎として売り出すことになる。
 容色の劣る禿あがりは高級遊女に付くことなく中級女郎として客を取らせたようである。また、番頭新造と称する女郎がいるが、これは30歳過ぎの年増で、客を取ることはなく遊女の面倒・世話などをやいた。遣手(やりて)予備軍のようなもの。

※若者
 
遊女屋の若者は、番頭、見世番、二階廻し、掛廻り、物書を担当した者を指す。不寝番や風呂番、中郎、飯炊料理人は雇人といい、若者とはいわなかった。
 「番頭」は若者の頭のことで、帳場での出納諸品の買い入れや、雇人の監督にあたった。「見世番」は遊女屋出入りの者に注意したり、遊女道中の折に提灯を持ち傘をさすなどした。「二階廻し」は遊女屋の二階、つまり酒肴・同衾の座敷廻りのこと、台の物(仕出し料理)や燭台火鉢などの配置などを担当した。「掛廻り」は売掛け金を集めるのを担当、頭の回転が鈍い者は勤まらない。外出が多いため遊女、新造、遣手から頼まれ事もあった。「物書」は証文など一切の書役、下級遊女屋には物書を置かないため、遊郭内の代書屋を利用した。雇人の「中郎」とは掃除・雑巾掛けや雑務を担当した者。

※町費
 
総籬(まがき)などの大見世は1日2貫文(1貫は1000文)、総半籬 などの中見世は1日1貫400文、小格子などの小見世は1日1貫100文を月行事に預けて積み立てていた。この積金を「小アヒ金」と呼んだ。岡引に贈る金を「カワ金」と呼んで小アヒ金から支出した。結構な金額で1ヵ年600両と定め、月々50両を岡引に渡したという。
 若者衆が遊びか冷やかしに来る大名の中間(ちゅうげん)・小者や放蕩御家人と喧嘩沙汰に及ぶ場合があり、これの内済金として支出することもあった。

※張見世
 
客を待つことを「見世を張る」という。新吉原では六ツの点燈後に各遊女屋の若者が掌で大黒柱を3回打つ。これを合図に格子の内側に控えた遊女(主に新造)たちが三味線を弾き始める。これを「見世清掻」(みせすががき)といった。夜見世の許可が下りてから始まったそうである。