上水制度                                                                                         江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

内田六次郎
 神田上水を開設したのはいつ、そして誰か。二説あるという。
 一説は家康が関東に入国した天正18年(1590)で大久保藤五郎忠行。一説は家光が将軍職にあった寛永年間に内田六次郎が開設。
   
■神田川に架けた木樋  「江 戸名所図会・御茶ノ水懸樋」
 上水制度1を読んでもらえば天正18年大久保藤五郎説の無理が判る。加えて両家のその後を鑑みれば内田六次郎説が正しそうだと感じられる。大久保家は忠行以来、代々江戸城出入りの菓子司になっている。一方の内田家は神田上水水元役(みずもとやく)を明和7年5月まで務めている。
 大久保家の家伝史料に、「江戸に於て水の手見立て候様に仰せ付けられ、御褒美として主水と申す名を下し置かれ候」とあるというが、上水制度1で述べたように江戸城近くの淵や溜池を堰き止めて上水として使えるようにしたのが大久保忠行で、神田上水のほうは違うだろう。
 わたしは内田六次郎が神田上水を開設したと思うが、家光が命じたものとは考えない。家光は慶長9年(1604)に生まれ元和9年(1623)に将軍となり、寛永年間(1624-43)では21〜40歳。前将軍の秀忠は隠居したが大御所として寛永9年(1632)に亡くなるまで二元政治を敷いていた。元和6年(1620)に御茶ノ水の掘割を造り小石川と平川を流し込んでいる。上水工事は御茶ノ水の掘割が完成してから遅くとも10年以内に施工されたであろうから、1620〜1630年の間に上水は開設されたのでは?と思うのである。1630年は寛永7年。秀忠が大御所として存命の時期にあたる。
 さらに内田六次郎の子孫の内田茂十郎が、神田上水水元役を罷免された後に出した復職願があり、これを検めた普請奉行その他が天明元年(1781)に茂十郎の処置を上申した伺書(うかがいがき)に、茂十郎が水元池普請成就の節に祖先六次郎が2代将軍秀忠から、「上水末々迄、過不足これなく行届き候様、出精仕るべき旨」の黒印状を与えられたと述べたことを記しているという。ただし、黒印状は明暦3年の大火(1657 振袖火事)で焼失しており、茂十郎の復職願には家康の関東入国年を間違って記している箇所もあるという。



水銀(みずぎん)
 上記のように内田六次郎は水元の池普請を終わると、黒印状と水元役という役名の他に、水道橋辺りに2000坪余りの屋敷を与えられたという。しかし、この屋敷地は万治3年(1660)の仙台藩による拡張工事の折に、幕府によって召し上げられ、その後は無給で水元役を務めることになり追々困窮して務めることが難しくなった。そこで扶持と拝領地の給付と帯刀御免を出願した。享保17年(1732)に水銀料として武家・町・在から高100石につき銀2分2厘を取り立てて務めを続けるよう申し渡された。これに対して内田家は冥加として水戸家屋敷内小石川大下水の上の神田上水渡樋を水銀料の中から築き立てた。以後内田家は、受け取った水銀料から諸費用を差し引いた分を生活費に充ててきた。
 以上のことは、明和7年(1770)に内田六次郎の子孫茂十郎が水元役を罷免された後、安永6年(1777)と天明元年(1781)に出した復職願に記されていたものだという。
 
 比較するために玉川上水では、初代庄右衛門・清右衛門両人は上水完成後に玉川の名字と帯刀が許され、「永代御役」を務め、200石分の金子を給与されることになった。明暦元年(1655)から万治元年(1658)の4年間、両人は切米を受けていたが上水開削のために家屋敷まで売り払ったので、200石分では御役を務めることが困難になったと訴えたところ、以後は200石に代えて上水を受けている武家・町方から水上修復料銀(水銀)の徴収を許されたという。
 玉川両家も内田家と同様に水元役を元文4年(1739)に罷免される。なぜ上水開発の功労者の子孫たちが水元役を罷免されたのか、その理由を述べる前に水銀の課し方について記しておこう。

 水銀は給水区域の武家・町方へ割り当てられた。武家は屋敷主の知行高に応じて四段階に区分して計算された。100石以上〜10万石未満、10万石以上〜30万石未満、30万石以上〜50万石未満、50万石以上の四段階。上屋敷、中屋敷、下屋敷を持っている場合は、上屋敷は本高で他の屋敷は半高もしくは割り引いて計算した。
 町方は屋敷単位ではなく一町単位で、表間口一間につき11文の割合か表間口二間で100石の換算だった。武家にしても町方にしても水銀は表屋敷を持っている者に付いて回った。上水を使わないから水銀は支払わなくてよいというものではなく、一度上水を取り入れた町・武家屋敷は、後で井戸を掘って井戸水を利用するようになっても水銀を支払わねばならなかった。
 上水の武家・町方への配水管は木樋を埋めてものであるから腐りやすく定期的に修理普請が必要だった。神田上水は水銀とは別に修理普請費用を徴収したかどうか明らかではないが、玉川上水の場合は徴収した。この修理普請費用も上水を使っていなくても当然のごとく支払わねばならなかった。現在NHKの受信料は「観てない」と支払いを拒否すれば、罰則規定がないから警察に捕まることはない。例えて言えば江戸の水銀は、罰則規定のあるNHK受信料のようなものといえようか。表通りの家屋敷からは必ず徴収したから現代の固定資産税ともいえる。

 幕府が内田家、玉川両家を罷免したのは、町人出身の者が幕府代官のような権限を持っていることへの不快であった。上水を開発したことによる水元役と水銀であり、いまさら不快もおかしいが、これには武蔵野新田の開発が絡んでいたからであろう。
 武蔵野新田の開発は享保7年(1722)、大岡忠相と中山時春の両江戸町奉行を開発責任者として進められた。玉川上水が流れる羽村から四谷大木戸までの村々が分水して利用する場合、飲料水は水料金、灌漑用水は水料米が玉川両家によって徴収されていた。武蔵野新田が開発されるようになると分水が従来の2倍に増えたが、分水を料する村々は幕府によって水料を免除されたため、玉川両家に水料は入らなかった。
 上水経営を家業とする玉川両家と幕府武蔵野新田担当者の間には、当然確執があったはずである。武蔵野新田は年貢収入の増大を狙う享保改革の課題のもとに進められていた。武蔵野台地は水持ちの悪い土地だったため、通常の田畑より水量を必要とした。玉川両家は幕府にとって邪魔な存在となったのである。
 玉川両家のほうが内田家より罷免されるのが早かったのは、この武蔵野新田によるものであり、内田家は井の頭池から関口の間の村々から水料は徴収していなかった。つまり自然の流れに手を加えた程度の神田上水は、開削した玉川上水とは分水の考え方が違っていたわけである。


上水支配
 玉川両家が罷免される11年前、内田家が罷免される42年前にあたる享保13年(1728)に以下のようなことがあった。
 町奉行大岡忠相・諏訪頼篤、普請奉行鈴木直武が老中戸田忠真へ江戸府内8ヵ所の溜枡(ためます)の浚いについて答申書を提出している。この答申書の前に、老中は溜枡浚いの請負を入札で決め、その請負人に拝借地を与えて浚渫させたらどうかと大岡ら奉行へ諮問したのだった。大岡らは拝借地を与えて請負わせると、当分の間は真面目に務めるだろうが後々粗雑なものとなるから拝借地を与えるのはいかがなものか。今回の溜枡浚いについて経費を計算してみると、1年で金20両ほどなので、幕府が貸し付けている町屋敷の地代から捻出して、溜枡浚いのたびごとに請負人を決めて費用を支払うほうがよいだろうと答申した。
 すなわち、幕府の官僚たちはこの頃から内田家や玉川両家のような定まった請負人の登場を阻止し、いつかは定請負人の既得権を剥奪しようと考えていたといえよう。内田家の罷免以後、町人が請負う水元役は廃止され(修理普請はこの限りではない)、上水経営は幕府直営となったのであった。

 内田家、玉川両家が罷免された不幸は、将軍家の血が絶え紀州から吉宗が将軍職に就き行政改革を行ったこともあるが、江戸の上水を管掌する幕府の役職が専一ではなかったことが挙げられよう。開府以来専一する職が管掌していれば子孫が水元役の権利を全部剥奪されることはなかったのでは、と思われる。以下に幕府上水支配役の移り変わりを記してみた。

元和4年(1618)
阿部正之という土木職にあった者に江戸の道路を巡視し水道の事を沙汰させる。上水専任職ではなく、これ以前も専任職はない。

寛永20年(1643)
目付と道奉行(大目付と勘定奉行が兼職する道中奉行ではなく、江戸府内の道路を管轄する職)へ「水道水溜払の事」が命じられる。これも専任職ではない。

寛文6年(1666)
この年に神田上水、玉川上水の奉行として任命された者がおり、この頃から上水奉行という専任職が設置されたようだ。

寛文10年(1670)
江戸の町年寄三家(樽屋、奈良屋、喜多村)が神田上水の江戸入口にあたる武蔵国豊島郡関口・小日向・金杉の三村の代官を兼職すると共に、羽村から四谷大木戸までの玉川上水両側三間を支配し、自費で松や杉の苗を植える。

元禄6年(1693)
上水支配は上水奉行から道奉行の専任と決まる。

元文4年(1739)
玉川両家が罷免されたこの年、上水支配は道奉行から町奉行へ管掌移行となる。町年寄三家が神田上水・玉川上水の管理をすることになる。また玉川両家の罷免後、鑓屋町名主と大鋸町名主の二名が水元役(水銀徴収の権限はなし)となり、玉川上水羽村大堰筋定請負(定請負は明和7年で廃止)となる。両名は神田上水白堀浚定請負も務めていた。

明和5年(1768)
内田家罷免の2年前、町奉行の管掌から普請奉行へ移行。加えて、目付から1人、勘定吟味役から1人が兼職して水道諸般のことに立合うことになるが、年を追うにつれ目付・勘定吟味役の立会いは形骸化していく。

文化8年(1811)
普請奉行の専任となる。

文久2年(1862)
上水支配は作事奉行の兼職となり明治を迎える。


神田上水白堀浚定請負人とは?
目白下大洗堰から牛天神下水戸家屋敷際までの約2`余りの開渠部分を神田上水白堀と呼ぶ。白堀は素堀の意味。神田上水を配水されている江戸の町々は白堀の浚賃(さらいちん)を負担していた。人足を雇って浚わせるのだが、当初は町が決めた請負人に任せていた。享保14年(1729)になると幕府役人が決めた請負人になり、浚賃は町々が役人へ納めるように変わった。この白堀浚いに内田家は関わっていないようである。


上水の質
  見た目で水が澄んでいればよかったようだ。正徳3年(1713)頃、中野村から代々木村の3ヵ所と、金杉端際から戸塚村橋際までの5ヵ所に水浴び、魚や鳥の捕獲禁止、塵芥を捨てることの禁止を書いた高札が立てられていた。目白下大洗堰を始め開渠部には芥留めの木柵を設置していた。
  水番人が目白下大洗堰、牛天神下、小日向大日坂下橋、水道橋外掛樋などに配置され、塵芥を引き上げたり濁り水や土手石垣、樋の水漏れ・破損箇所、水量の見守りにあたっていた。

 
ここから始まる■井の頭池水門 
 上水が流れる武蔵野の村々は「持場村」といった。沿岸の草刈、汚染防止、高札や分水口の保全にあたる賦役があった。井の頭池のある無礼村(牟礼村)に始まり大洗堰のある関口村まで。右岸で上水と接する岸が最も長いのが戸塚村で約2.4`、最短は永福寺村で382b、左岸では本郷村が最長で約2.6`、最短は上落合村の635b、両岸を持場とする村で最長は本郷村の約4.5`だった。
  なかには玉川上水と接する村もあり、無礼村や久我山村、上高井戸村、下高井戸村、和泉村の5ヵ村の賦役は重いものとなった。また上高井戸村と下高井戸村は甲州街道の宿駅であったが、持場村の賦役は軽減されなかったので相当な負担感があったと思われる。
 草は肥料になったから課税対象地で草野銭を納めねばならなかった。よって持場村の村民は沿岸の草を刈り、上水に垂れる樹木を刈った上に草野銭を納めることになった。江戸中期になると草から糠に肥料が移行していったが、それでも草野銭を納めたから、持場村にとって上水は灌漑用水以外には利点がなかった。
 神田上水に比べて俗に「人喰い川」と呼ばれた玉川上水は川底が深く、落ちると滑りやすく容易に上がってこれなかった。そこで上水に垂れ下がる樹木の枝を伐るには筏を組んでやるしかなく、しかも流れが速いから困難な作業となった。さらに刈った草木を上水に落とすと汚染することになり、細心の注意を払わねばならなかった。


その他
 上水が開発される以前の江戸に飲料となる井戸水が出なかったわけではない。下町の低地を掘っても潮気のある井戸水しか出なかったが、関東ローム層の厚い赤土の下にある砂礫層が表に出てるような武蔵野台地の先端部と低地の間の崖部の井戸水、例えば小石川の「極楽之井」や谷中の清水稲荷の清水、神田高林時の「御茶水」などは名水の呼び名が高かった。しかし、こうした名水井は少なかったから神田上水、続く玉川上水の開発となったわけだ。
 ところで、玉川上水開発の10年ほど後にも江戸府内に四つの上水が開発されている。亀有(本所)上水が万治2年(1659)、青山上水が万治3年、三田上水が寛文4年(1664)、千川上水が元禄9年(1696)の開設である。しかし、この四つの上水は享保7年(1722)に廃止される(千川上水は天明元年に再開するも同6年閉鎖)。なぜ一挙に4上水が廃止となったか謎である。俗に将軍吉宗の侍講(じこう)である室鳩巣(むろきゅうそう)が、江戸の火災と水道の関連について上申したのが原因とする説がある。風は乾燥させて火を呼ぶ、風は水より生じ、江戸の大半が水道となり、それは地下に風を吹き込んでいることである。と、陰陽師のような考え方だったらしい。
 事実は判らぬが、亀有以外の3上水は玉川上水からの分水だったことから、玉川上水の源流多摩川に何かがこの頃あったとする説が有力のようである。

 4上水が廃止された頃、新しい工法による井戸掘りが行われていた。五間(9b)ほど掘ると「青へな」と呼ぶ柔らかい土に達するそうだ。これを竹で突き通すと岩にあたる。この段階で「中水」と呼ぶ水が出るらしい。さらに岩を突き抜くと飲料に最適な水が出るという。この岩を突き抜く工法による井戸を、「掘抜井戸」というのだが、実際のところは難しくほとんどは中水井戸だったようだ。料金は中水井戸で15両だったから、大いに普及したとはいえないだろう。上水が廃止された町々の人々は、町で井戸を掘るか、水売人から買っていたものと思う。
 水売人には名水と呼ばれる井戸から銭を払って水を汲み、それを売り歩いた者や、水銭を払って神田上水・玉川上水の余水を汲み、深川の町々へ一荷いくらで売る水船業者がいた。
 以上神田上水について書いてきた。かなわない夢だが、どんな味がしたのか、江戸の水を飲んでみたくなった。



※参考資料「江戸の川 東京の川」(鈴木理生 井上書院 「江戸上水道の歴史」(伊藤好一 吉川弘文館)他