大名の制度と生活                                                                         江戸と座敷鷹TOP   江戸大名公卿TOP

 

江戸の生活
 江戸屋敷は上屋敷・中屋敷・下屋敷に分かれ、屋敷地は大名が幕府から拝領したものだが、この他に抱屋敷と呼ばれるものがあり、これは大名が私的に所有した屋敷地であった。抱屋敷と下屋敷は休息用か産物倉庫用などの用途に、上屋敷は政務・藩主住居用、中屋敷は世継ぎや隠居の住居用などに使用された。小大名(5万石以下)の場合は中屋敷、抱屋敷を設けていないことが多い。
 上屋敷の表門は長屋門(石高などによって大きさや左右両側の番所の形式が定められていた)であったが、国持大名は長屋から独立した棟の高い門(左右両側の番所の屋根が唐破風造)を構えていた。しかし明和9年(1772)の目黒行人坂の大火以降は、棟の高い門の造営が禁止され、国持大名も長屋門を使用するように定められた。なお、
火災焼失後は仮門として冠木門(かぶきもん、屋根がなく門柱の上の方に横木を貫いて渡した門)を建てていた。
 上屋敷は表・中奥・奥の三部分に区別でき、表は政務所、中奥は藩主の執務兼住居、奥は江戸定住を定められた正室・子女が住む。この屋敷を囲むように家老長屋などいくつかの建物が並び、一番外側には士分以上の住居である表長屋がぐるりと建ち、道路との境をなしている。表長屋は中屋敷・下屋敷にもあるが、上屋敷の表長屋は二階建てで、腰が海鼠(なまこ)壁、その上が塗壁、窓は連子(れんじ)窓であった。上屋敷の広さは10万石以上は7000坪以上、5万石以上は5000坪以上、1万石以上は2500坪以上。
 
 国持大名
岡山藩31万5000石池田家を例に見てみよう。岡山藩の上屋敷は大名小路(皇居の東、和田倉門の南寄り)にあり大名坊本邸とか丸の内屋敷、あるいは辰の口屋敷と呼ばれていた。広さは7490坪、桃山風の豪華な表門を入ると、玄関、表詰所、御留守居詰所、御用部屋など大小数十の座敷や居間が廊下伝いに続き、奥の庭園には能舞台が二つ突き出していたという。これら表向と御錠口で繋がっていたのが男子禁制の奥向で、御台所(奥方)の間、老女の間、女中部屋、調理所、御化粧部屋などが並んでいた。上屋敷の周辺は高い塀で囲まれ、家臣の長屋(各々が玄関を持つ)が60軒塀沿いに並び、江戸家老や留守居役など重臣らの住居は独立家屋で建っていた。
 岡山藩はこの上屋敷と路を挟んだ向かいにも広さ5940坪の屋敷を持っていた。上屋敷と向屋敷は路の上を跨ぐ廊下で繋がり、塀沿いに家臣137人の長屋が並んでいた。上屋敷が手狭であったため、福岡藩黒田家の邸宅を譲り受けたものだという。
 中屋敷は築地に広さ4800坪のものがあり、中央の居館を取り巻いて家臣21人の長屋があった。下屋敷は本所と大崎に二つあったが、この他に新設・廃止された下屋敷が江戸期を通じて12ヵ所あったらしい。江戸には岡山藩士が200余名いたが、参勤時にはその数倍の人数に膨れ上がったという。

 大名の江戸生活を岡山藩3代当主池田光政を例に見てみたい。名君と呼ばれる光政は寛永14年(1637)から寛文9年(1669)までの33年間に及ぶ「池田光政日記」を残している。以下は承応4年(1655)4月12日岡山を発った光政が4月25日に江戸上屋敷に到着した以降のもの。

4月26日
、上使として老中松平伊豆守信綱が来訪し、将軍上意として「参着仕られ候由、聞こし召し上げられ候、苦労に思し召され候、近日御会いなされ、御意なさるべく候」と口上す、光政はこれに対し「有り難き御上意、慎んで拝受致し候、近日登城、改めて御礼の言葉言上申し上げたく候」と言上。
4月28日、参勤の御挨拶言上、江戸城へ登城し酒井雅楽守の介添えで将軍家綱に直々御目見の栄に浴す。雅楽守が光政に代わって「先日は御上使くだされ忝(かたじけな)く候、先年は能(よ)き時分に国へ御暇くだされ忝く候、御鷹の鶴国元にて拝領致し忝く候」と言上。
5月1日、諸侯総登城の命下達され、江戸城へ登城、大広間に詰め待ち居ると将軍臨御され、過ぐる4月13日をもって承応年号が明暦に変わりし事仰せ渡される、後西天皇御践祚(せんそ)なされしためなり。
5月2日、備前国留守家老より飛脚来たり、家中の佐分利左内が出奔せし由、原因は女色に関し不義をなし家中の面々に面目を失いしためなり。
5月6日、旗本石谷将監、再び藩邸を訪問、光政の嫡子綱政の縁談について申し込みありしが、光政の方針として大身衆との結縁は不本意なりとして断わる。
6月1日、因州鳥取の池田光仲(光政とは従兄弟)の小姓ら20名、江戸藩邸にて主君の取り扱いが悪いとして、徒党して長屋に引き籠り、君命に従わずとの連絡来たり、親戚として捨て置けず因州藩邸へ赴き光仲より事情を聞くと、君命に従わざるは不忠至極早速成敗に致したいが、江戸にては風聞が悪いため国元へ帰し成敗又は改易を申し付けたいと言う、小姓らの言い分もあるかと考え、事情を聞いたが別段小姓らに落度はなく、これみな光仲の平素の行いが常軌を逸している事が原因と思い、光仲を強く諌め万事穏便に処置されたいと申し残して帰邸する。
8月8日、備中松山藩主水谷勝隆(勝宗→勝美と続くも勝美の急逝により嗣子無く領地収公)の代理として江戸町奉行神尾備前守が光政を訪問、備中領の内海百間(182b)ばかり堰き止めれば、備中領にも備前領にも多くの新田が出来るので協力願いたいと言う、これに対し光政は、わが藩にては昨年来の水害復旧普請に追われ、今のところは考え及ばざる由を返答せしが、国元の家老衆の意見も聞かれたいと申すため、早速国元に飛脚を出し尋ね合わせたところ、老臣たちも昨年来の洪水の後始末に追われ、ここ1、2年は新田開発のことなど考え及ばざる由、申し来たりしため、12月8日にこの旨を神尾備前守へ伝える。
家老職に就く家は6家あった。虫明(むしあげ、知行地、以下同)3万石の伊木家、天城(あまぎ)3万石の池田家、周匝(すさい)2万5000石の片桐家(後に池田と改称)、金川(かながわ)1万6000石の日置家、建部1万石の森寺家(後に池田と改称)、佐伯1万石の土倉家。明治の廃藩叙爵時に6家とも男爵となっている。
8月17日、老中酒井忠清の使者として牧織部が訪れて、光政の娘の三女富幾(ふき)を榊原忠次(当時は播磨姫路15万石藩主)の継嗣政房に申し合わせたしと言う、光政も異議がないので翌日、天樹院(千姫、光政の正室勝子の母)に相談せしところ、院も非常に喜びたまえば、早速織部を通じ忠清殿に異議なき由を返事したり。
明暦3年4月2日、両者の婚儀が
盛大に行われた。大名の婚姻は将軍の許可を要したが、法文化されたのは享保15年(1730)で、大名が結婚する場合は、双方から親しい旗本を通して老中の年輩者のところへ伺いを立て、老中と相談してから再びその旗本が御用番の老中のところへ願い出る、そして暫くすると幕府から御用の儀があるから登城せよという老中連名の通知状が両家へ届く、両家は早速御用番へお請けの使者を出す、指定日に両方の大名が登城すると、老中から「願いの通り縁組仰せ付けらる」と口頭で許可がおりた。
12月晦日、国元より飛脚来たり、目安箱に投入されし投書により、国内に白銀贋造ありしこと分かりたるとの事、早速穿鑿にかかりしところ、虫明にて犯人1名分かりしため、これを捕らえ拷問にかけしところ、その自白にて同類24名ばかり分かりしため、すべて捕縛し入牢せしめおり、犯行の詳細は後ほど連絡致すとのこと。
明暦2年正月1日、元旦(元日の午前中)天気能し、上屋敷に祀れる先祖三人の霊に、光政及び伊予(嫡子綱政)二人列座して焼香、新年の雑煮など供えて俯伏再拝、さらに伊予にお茶を立てさせ献茶をなし、孝経一巻(孔子と弟子の曾子が問答の形で孝道について述べ、孝を最高道徳とし治国の根本となす、儒家が重要視する十三経の一つ)を奉読し、終わりてお供えの膳を下げる。
正月2日、朝六ツ(午前6時)江戸城に登城し将軍家に御目見を許され年賀の賀詞を言上す、将軍家より御盃を賜り、さらに呉服を拝領す、その後に大老酒井忠勝、老中酒井忠清はじめ将軍家の弟徳川綱重、紀伊宰相、尾張家など39ヵ所に年賀の挨拶に参上、当日上屋敷に来たれる年賀の客128名なり。
年頭の挨拶は、元日は御一門と譜代大名・諸役人、2日は国主・城主・諸役人、3日は諸大名嫡子など。大名の登城・謁見は、式日(年頭・五節句など)・毎月朔日(毎月1日)と15日。謁見は大広間・白書院などで行われ、儀式により異なるが礼服は、将軍・御三家・御三卿・侍従以上の大名は直垂、四位は狩衣、五位は大紋。池田光政は従四位下左近衛権少将で侍従以上なので直垂、将軍への謁見は単独の独礼、五位の場合は大広間の下段に立つ将軍へ一同揃って平伏する略式であった。
正月3日、幕府勘定奉行曽根源左衛門、大目付井上筑後守、江戸町奉行石谷右近将監など30ヵ所に年賀の挨拶に参上、当日上屋敷に来たれる年賀の客60名なり。
正月4日、当日24ヵ所に年賀の挨拶をする。国元より飛脚来たり、朝鮮使節一行が昨年末24日に無事下津井湊を出船せし旨伝え来たりたるため、その由老中へ伝える。
正月5日、夕方、息子伊予(綱政)を訪ね、母上福昭院殿も交え、伊予の誕生祝を兼ね振舞事をなす。当日上屋敷に来たれる年賀の客10名なり。
正月11日、旧冬、国元より贋銀造りの犯人ども捕縛せし旨連絡ありしが、本日その取調べ状況を報告し来たれり、早速、江戸町奉行神尾備前守を通じ、老中に事件の概要を報告したり。贋銀造りはキリシタン宗門同様大罪なるため、犯人を拷問にかけても更に厳重に訊問し一切を白状さすべく国元へ指令す。国元の取調べによれば、犯人らは既に京・敦賀辺りへ逃げのびし者あるやに聞き及びたれば、当地領主酒井忠勝殿(若狭小浜藩主で当時は大老職にあった)に連絡致し、それぞれの地で捕縛されたき旨依頼す。
正月13日、四ツ時(午前10時)、東禅寺に例年のごとく参拝す。
東禅寺は芝にある岡山藩の檀那寺、江戸で亡くなった池田家一族の墓はほとんど東禅寺にあった。
正月28日、国元からの連絡では備前東境の三石・八木山の百姓ども昨年来の旱損(旱害)及び水損(水害)の災に遭い、生活なり立ち申さず、困窮致し居る者多き由なれば、山運上(山林に対する税金)を免除致すべき由指令せり。
2月19日、国元からの連絡によれば、城下にて少しずつ盗みをなし、又、奉公人女などを欺きて女房に致し、その衣類まで取上げて売払い、果ては離縁を申し渡す不埒者がおる由、奉行に取調べ致させしに美作の者なる由、早速、作州公(当時の美作津山藩主は森長継)に連絡致せしところ、左様の者に心当たりなしとの事なるため、当備前国法により鼻を削ぎて追放せり。
3月7日、江戸城より連絡あり、早速、留守居役を登城せしめしところ、大老酒井忠勝、老中松平信綱、阿部忠秋ら列座の席にて、阿部老中殿より贋銀造り大勢にも拘わらず早速捕縛詮議を行われ、奇特(感心)の至りなりとの将軍の御上意を頂いた由、申し渡さる。
3月8日、贋銀造り穿鑿につき将軍家より特別の御上意を頂いたれば、本日、息子伊予(綱政)を同道致し大老酒井、老中松平、阿部の諸家を回り、お礼の言葉を言上す。その口上は「国元にては平素より随分厳しく申し付けおるに拘わらず、今回のごとき不埒者多数でき申して悪事を行い困却仕りおり候、幸い他所より知れ申さず、領国の内にて穿鑿致し、それぞれ仕置(直接贋銀造りをした12名は磔、持ち運びなどをした12名は追放、各々の家族も累犯として奴・お預け・追放)申し付けたるは不幸中の幸いと申すものにて候、昨日は当方家来をわざわざお呼びくだされ有り難き将軍御上意をお伝えくだされ光栄至極にて候」。
3月23日、将軍家綱、疱瘡(もがさ、天然痘)に罹られし由、当家にては早速、上野寛永寺、山王日枝神社及び伊勢神社に代参を出し、そのご平癒を祈願さす。また国元にても利光院、金山寺などにて祈祷致す事を命じ、光政も一日二回ずつ登城して御見舞申し上げる。
4月7日、将軍の疱瘡無事全快され、本日酒湯(さかゆ、疱瘡全治の際に酒を入れたお湯に入湯する)を使われしこと公表さる。
4月27日、将軍上使としてろ、老中松平信綱が上屋敷に御来臨なされ、将軍家より下国(帰国)のお暇給わりしこと伝達され、同時に餞別として例のごとく時服として袷を賜る、将軍上意の口上は「久々相つとめ苦労仕り候、お暇つかわされ候間、国元へ参り仕置など申し付くべく候、今度疱瘡につき毎日たびたび登城いたし候儀奇特の至りに候、いよいよ御機嫌もよく候間、近日おもてなされ(表向きに出御されて)御対面なさるべくおぼしめされ候えども、まずお暇つかわされ候」と言うことであったので、光政は次ぎのごとく御返答申し上げた、「忝き御上意有り難く承り候、近日御暇乞いに登城致し直々御目見給わり、あらためてお礼言上致すべき心積もりにて候」。
同日、旗本能勢小十郎が佐賀藩主鍋島光茂の代理として来邸、光茂の娘当年8歳なるを嫡子綱政に進ぜたいとの事にて、もし御希望なれば父勝茂存命中に約束事のみにても致したき由、光政有り難く拝聴せしが、当家只今のところ方々より御申し込みを受けおり候が、すべてお断り申しおり候、訳は当方にて既に存じより(候補者)ありて話合い進みおれるためにて候と、鄭重にお断り申す。
鍋島光茂の娘は、後に土井大炊頭利重へ嫁している。
閏4月13日、江戸城に登城、先日、老中松平信綱を上使として国元へのお暇賜りしお礼言上す、将軍家にはご病後にかかわらず御目見許され、例のごとくお馬をくだされ、さらにキリシタンには相変わらず油断なきよう、また公儀御法度については固くこれを守り候ようにとのお言葉賜る。
閏4月22日、老中松平信綱を訪ね、帰国にあたって次の三条の願書を差し上げたり。
一、下国途中、京都一条家に立ち寄り久々の無音を謝りたいこと
二、去年の大洪水にて埋もりたる城の濠の総浚いを致したいこと
三、お城の石垣に穴蔵を作り煙硝を貯蔵致したいこと
閏4月27日、先の三条の願書につき老中より回答致したき為、代人を登城せしめよとの事なれば、早速留守居役をつかわせしところ、老中松平侯より、前二条は上意に達しお許しを得たるが、あと一条は上意のお許しなかりし由伝達さる。
5月5日、供立一行と共にいよいよ江戸を発ち領国岡山へ向かう。

参勤交代について
 参勤交代の制が確立するのは、3代将軍家光の治世の寛永12年(1635)10月2日なのだが、それ以前の関ヶ原の戦い(1600)の頃から、豊臣氏に属していた諸大名の中にも江戸へ参勤して家康に忠誠を誓う者も現われ、家康も有力な外様大名には江戸への伺候を奨励するようになった。参勤交代制によって大名が提出する証人は、大名の正室と嗣子であるが、寛文5年(1665)まで大名の正室・嗣子の他に家老職に就く家柄の重臣の子息をも証人として江戸に下らざるを得なかった。例えば、岡山藩主池田光政などは全家老六家の嫡子を江戸へ証人として提出している。
 
 参勤交代の時期は以下。
一、外様大名→4月交代、在国在府1年
二、譜代大名→6月交代、在国在府1年
三、関八州の譜代大名→8月参府2月御暇、在国在府半年、あるいは12月参府8月御暇、、在国4ヵ月在府8ヵ月
 若干の異例があり、一、の外様大名の中にも二、の場合が一部あり、関八州の大名の中にも二、の場合が一部あった。なお、水戸藩と老中など役付きの大名は定府であった。しかし、江戸期を通じて例えば外様大名が必ず4月に交代していたかとなると、そうではなく、加賀藩などは7月、3月も4月並みに多いのである。これは病気や領内の凶荒などが理由であるが、4月交代と決められていても、「諸大名参勤交代伺制」なる規定が別にあり、「四月参勤の輩は前年の十一月に伺ふべし」という定めにより、4月交代が幕府の都合からできない場合もあった。
 
 参勤交代制は享保の改革で一時緩められた。享保7年(1722)7月7日、在府年限を半年とし在国を1年半に定めた令を出す。その見返りとして、諸大名に高1万石につき100石の上米をさせ、幕府は御家人に支給する切米や扶持米の約半分を調達できたといわれる。この令は8年後の享保15年(1730)に元の1年交代へ戻される。
 幕末になると、参勤の途中で病を理由に国元へ引き返す大名や、大手門の警護を断わる大名がいたり、在国したままの大名がいたりと幕府の権勢は衰退著しく、文久2年(1862)、幕府政治総裁松平春嶽、その顧問横井小楠の意見で、その年の閏8月23日に隔年参勤が3年に1度に、在府の期間は1年から100日へ短縮され、在府を強制されていた正室・嗣子も国元へ帰ることが自由となった。

 行列の人数について。
 参勤交代の行列の人数が最初に定められたのは、参勤交代の制が確立する以前の元和元年(1615)の武家諸法度であった。「百万石以下二十万石以上は、二十騎以下とし、十万石以下は家禄に応じた人数」と定められた。次の発布は元和3年(1617)の武家諸法度、「従者の員数、近来甚だ多し、且つは国郡の費(つい)え、且つは人民の労なり、向後、その相応を以ってこれを減少すべし」と定めているが、具体的な人数は記されていない。記されることになるのは、享保6年(1721)の御触書であり、以下のものとなる。

参勤交代従者数の規定(享保6年) 
 

馬上騎 

足軽 

仲間・人足 

100万石以下
20万石以上 

15〜20騎  120〜130人  250〜300人 

10万石以上 

10騎 

80人 

140〜150人 

5万石以上 

7騎 

60人 

100人 

1万石以上 

3〜4騎 

20人 

30人 

 100万石以上に加賀藩があるが、寛永16年(1639)〜明暦3年(1657)まで80万石だったためか加賀藩は100万石以下20万石以上の規定に従ったようである。とはいえ、20万石の藩と同じということはなかった。加賀藩の行列は年代によって差があるが2000人〜4000人、岡山藩池田家の行列は600人〜700人であった。どちらも規定から逸脱しているように見える。が、次のような考え方だったようだ。「行列の内」と「行列の外」という捉え方で、藩主を護る本隊「行列の内」は450人を限度に編成し、本隊からやや遅れて「行列の外」が従うという構成であった。

 参勤交代の道中費であるが、近世の交通史に詳しい田村栄太郎氏によると、殿様の旅費は一里につき60両、家臣への旅費の前渡金を含めると一里につき88両の費用が掛かるとしている。

国元の生活
 岡山藩主池田光政は、承応4年(1655)の正月を岡山城で迎えた。
 岡山城天主閣及びその前方の居館のある場所は本段と呼ばれていた。本段の北側の一段高いところに旭川を見下ろす三層五重の天主閣が聳えていたが、光政はその南面に広がる居館で生活していた。居館には77部屋あり、総畳数は540畳あった。居館は表向と奥向に分かれ、奥向は殿様の乳母がお年寄ないしは老女に任命されて取締にあたり、お国御前(お国妻)という公認の側室がいた。殿様の居間や寝間は表向と御錠口で繋がる奥向にあり、迷路のように折れ曲がった廊下を行くと殿様専用の座敷「長春の間」に至る。池と築山のある庭園が見渡せる場所で居間や寝間があるが、この奥が殿様の生活の本拠となった居間や寝間があったという。奥向の女性たちの生活の場である長局はさらに廊下伝いに奥へ向かう場所にあった。
 殿様は毎朝六ツ時(午前6時)頃に起きる。お伽の中臈とお添寝の中臈がいる場合は、彼女らは足早に奥向の長局へ引き上げる。通常殿様が起きると、宿直の小納戸役が座敷に毛氈を敷き、洗面道具を揃える。その中にお付きの歯医者が調合した塩と唐草模様のうがい用の茶碗も入っている。洗面が終わると紋服に着替え、袴を着けて仏間に入り、祖先の位牌に焼香礼拝する。次に髪結い、御櫛上役(おぐしあげやく)と呼ばれ御側小姓や小納戸役から選ばれた五、六人があたる。この役に就いて光政に才能を見い出された者に津田永忠(土木事業に尽力し藩の産業・生活基盤をつくる)がいる。髪を結いながら二人の当番医師による健康診断を受ける。一人は脈拍、一人は袖口から手を入れ腹を診る。
 五ツ時(午前8時)になると一汁二菜の朝食。これが済むと殿様専用の座敷「長春の間」に移り、侍講を招致して講義を聞いたり、下段の練武場に下りての剣術稽古、馬場での馬術稽古などをして過ごし昼を迎える。正午には奥の居間で昼食を摂り、これが済むと御側御用取次役が本日の予定を説明し、午後の行事が予定表に沿って進む。大概、長春の間に月番家老を招致して、持参した書類を読み上げさせ、それを一つ一つ決裁していく。決裁し難い案件は、下段の表書院に下りて全体家老会議を招集し、家老一人一人に意見を述べさせ、それらを参考に一気に決裁を下す。政務が終わるのは夕方の七ツ時(午後4時)、風呂に入る七ツ半時(午後5時)まで謡曲や書画を愉しんだり、侍臣を相手に囲碁・将棋に興じたりする。風呂が済むと六ツ時(午後6時)から夕食となる。
 殿様はどのような食事をしていたのか、「中山道安中宿本陣文書」に大名の献立表として次のようなものがある。主食は米飯。
朝食→鱠(なます、干大根・しそ)、汁(青菜)、平椀(油揚・昆布・焼豆腐)、ちょく(干うり)、塩引
昼食→鱠(鮎・ぶり)、汁(ねいも)、煮物(なすび・わらび・焼豆腐)、ささげひたしもの、焼物(鮎)、香物
夕食→鱠(大根・干鱈・したつき大根)、汁(野菜を粗く刻んだもの)、平椀(焼豆腐・わらび・山芋・かんぴょう)、ちょく(うどのあえもの)、鮎酢

 さて、光政は正月を岡山城で迎えた。以下は上記した「江戸の生活」直前の国元での生活を記したもの。
承応4年正月元日、例年の通り表書院で家臣からの年頭挨拶の儀を受ける、五ツ時(午後8時)より始まり八ツ時(午後2時)に終了、総計718名の参賀に及ぶ、光政は上段の居間へ引き上げ寛ぐ。
正月2日、午前中恒例により年頭の寺社参拝の儀を行う、東山の東照宮から始め、台宗寺、利光院、国清寺と巡拝し、昼前に帰城する。
 昨年末12月19日に宿次(やどつぎ)をもって将軍家から拝領したお鷹の鶴(将軍のお鷹場で獲った鶴)の料理を賄方に命じ、表書院に参集した家老以下郡奉行など上級藩士130人へ汁物として接待する、また国老土倉淡路と池田下総に命じ、鶴の煮物一切れずつを参集者一同に箸で挟んで配らしめ、さらに一同に土器(かわらけ)で御屠蘇を注いで回らせた。
 次いで家中一同を表書院の大広間に招集し、年頭の訓示、要旨は以下のごとし、
「昨秋帰国の時、既に申し聞かせた通り、先年の大洪水の傷跡はまだ修復し得ず、百姓どもは塗炭の苦しみに喘いでおる、そのため在方(村方)行政にあたる者どもは、自ら身を慎み百姓と艱難辛苦を共にする気持ちでおらなければならない。予(光政)が口を開けば何時も百姓、百姓と百姓第一に申すので、士分の者どもはいささか心苦しいかもしれないが、それは大きな心得ちがいである。百姓こそが国のもとで百姓がなくて何で諸士の生活が成り立とうぞ、最近在方より乞食が多く町に出て来るのは、これみな地方知行(じかたちぎょう、地方行政)にあたる奉行・代官の仕置が至らぬためである。地方知行にあたる役人はこのことを篤(とく)と考え各自の責務の重かつ大なる事を自覚し、地方仕置(地方行政)に挺身せよ。もし予が言に不満なる者があれば、早速暇を取らすから申し出よ。いずれに立ち退いて他家へ奉公しても苦しくない。わが藩の禄を食みながら、予の申し渡す政事について、とやかく不満を申す者は、わが藩の大盗人である」
正月3日、平士(無役の藩士)470名を表書院に集め、前日同様お鷹の鶴の料理と御屠蘇を振舞い、新年の賀礼を受けると同時に前日同様の訓示を行う。
明和5年(1768)の記録によると、岡山藩には役付き藩士140名、無役の藩士782、計922名の藩士がいた。この他に鉄砲方・徒が528名、軽輩・足軽が3711名、計4239名がいた。当時の町人約3万人、農民約33万5000人、雑職(僧侶・神官・医師など)約1万人、岡山藩の総人口は約38万8000人となる。
正月4日、領内の出家衆(僧侶)119名が年頭の賀礼言上のため登城してきたので、表書院で接見し賀礼を受ける。午後は番頭(騎馬大将)、物頭(足軽大将)衆を召集し次のような教書を与える。
「最近、家中の上士(上級藩士)の子弟は文武の修業を忘れ堕弱に流れ、親の権威を頼んで徒らに遊び暮らしておる、汝らの子弟たちは自己の修業は怠っても親の隠退後は、その役職は当然引き継げるものと思っておるが、大きな心得違いである。今後は親の隠退時には、その役職全部を一旦取上げ、後継として相応しくない者にはそれを一切継がせない事にするから、親たるものこのところをよく熟考して子どもたちの監督または教育にあたれ。
 甲斐、信濃の古人も言っておるが、武芸の嗜みは若い内でなければ身に付くものではない、五十にもなれば如何に努力しても手遅れである。今時の若い者は鍛えるべき時に無為に過ごしておるから、昔鍛えた六十の者より無能である、今時の若い者は生活に驕り、厚着をし常に年寄のように馬にばかり乗って足腰を鍛えていないから、参勤の旅中など、1日九里、十里の道を五、六日も続けると、すぐ脱落して供の用もかなわぬ。今度、江戸参勤の時は、若い者には望み通り供を命ずるから、今の内から十分足腰を鍛錬して途中で脱落せぬよう準備しておけ」
正月10日、各郡奉行にお触れを出し、給人の借り物は去年の洪水以前のものは御破算とし、洪水以後のものは郡奉行、代官吟味の上、相互相談の上で年賦で返済するよう命じた。
正月11日、伊木長門、池田出羽、土倉淡路の3家老を招集し、具足びらきの儀式を行い、鏡餅で祝い事をする。また午後、伊木長門の口添えで、初めて八之丞に御目見を許した。
八之丞は光政のお国御前国(くに)が産んだ男子、後に輝録(てるとし)と称し光政隠居時に新田1万5000石を分知され生坂藩の藩祖となる。
正月12日、城下の貧民、東山・西山の乞食の内に多くの病人が出ている由、早速、町奉行、飢人奉行を呼び、汝らの慈悲心が不足しているため、かかる救いもれが起こるのだと叱責し、銀子5貫文を与えて救済手配すべしと申し渡す。また、江戸藩邸より嫡子綱政が将軍綱吉の烏帽子親のもとに無事「殿上元服」の儀を終了した連絡を受け、祝儀として鷹狩で獲った鶴と酒2樽を江戸へ送らしめた。

正月13日、早朝、国清寺に参詣す。昼頃、国老日置若狭と池田伊賀が登城して、「国内の政治が殿の御希望のようにうまく行かぬので、我々のどちらかが国内を巡視したいと思うが、政務多端なため余裕がないので、代わって熊沢助右衛門(蕃山)を代理として巡視させたい」と申し出たので、許可して助右衛門に銀子を若干渡し、もし巡視中救恤に急を要するものあれば、これを使うよう指示した。
 東山・西山の乞食村へ従来は貧乏人を強制的に追い込んでいたが、人道的見地より面白くないので、強制的追い込みは早速止めるよう国老日置若狭を通じて町奉行へ命じたところ、町奉行より東山・西山の頭次郎九郎にその由、申し渡したとの連絡があった

 上道郡の門田村の借屋に多数の町人が住んでいるが、このままにしておくと町方とも村方とも区別がつかなくなってしまうので、これらの借屋の町人を城下の町方へ移すよう指示した。もし移り先なき者あれば鉄砲屋敷に小屋掛けして、ここに移らすよう上道郡奉行と町奉行に申し添えた。
正月14日、去年より外下馬門に目安箱を置き(15日ごとに横目[目付]三人の立ち合いで開箱)、無記名の投書を許したところ、そのうち三つばかり政事に有効な投書があったので、誰が投書したかを調べ、さらにその具体的要求を聞く必要があったので、投書の要旨を書き、投書者は至急名乗り出るようにとの高札を家老池田伊賀の門前に掲示せしめる。
正月21日、郡中法度を公布したので念のため書き留めておく。「金子を貸し質草に取り上げし田畑を、貸主が年久しく作り候て元金、利金にあたる分を取り返し候ものは、元の主にただにて返し申すべく候、但し、その返却につき申しては群奉行よく吟味の上、両者とも納得のいくよう処置せられるべきこと」
2月9日、邑久(おく)郡奉行、西村源五郎を赤坂郡奉行へ転任せしめしところ、邑久郡の百姓ども、源五郎を慕い申し、親に離れし子のごとく悲しみおる由伝え聞きしため、源五郎をもとの邑久郡へ返し、赤坂郡奉行には俣野市左衛門を命ずる。
3月3日、節句の儀礼を行いしところ、参賀する者563名に及べり。
3月14日、上道郡の大宮の神官がキリシタンであるとの投書があり、横目(目付)岡田喜左衛門、郡奉行波多野源兵衛両名に命じ、かの神官を捕らえ種々穿鑿せしめしところ、事実無根のことわかりしため、この投書をなせし者を探索せしめしところ、かって大宮の社僧をなしおれる者の業(わざ)なりしこと相わかりしため、この者を探索致し、三野法界院中にて捕縛せり、早速審問致せしところ、無実を申し立て罪を逃れんと致すため、投書の筆跡と本人の筆跡を照合せしめしところ全く同一なれば、責め立てて遂に白状せしむ、投書の理由はこの社僧かって大宮にありし時、神官の下女に言い寄り、これと姦通せしところを見付かり、彼の神官きつくこれを咎めて破門致したるため、これを恨みて無実なる事を投書せしなり、三月十四日、郡奉行波多野源兵衛に命じ、右社僧の首を刎ねしむ。
3月15日、家老池田出羽が、江戸に出し居れる証人(人質)の嫡子主計(かずえ)が病弱なるため次男と交代致させたき旨、家老池田伊賀、日置若狭を通じて申しいでしため、直接、出羽を城中に呼び出し、次のごとく叱責する。
「只今の節かくの如きこと公儀へ上申致すこと面白からず、上様(四代将軍家綱)御若年なれば、今まで次男を差し出しおりしも、この際、惣領を差し上げたしと申しいずるこそ至当なり」。
 旗本石谷将監が当城に使いとして来たれり、松平越前守殿(当時、越前福井45万石の藩主松平光通)の妹を当方嫡子綱政の正室に貰われては如何との申し出ありしが、予(光政)が如きものは、松平殿の如き大身との縁組は気ずまりなるため、当方にて既に話し合いつつある者ありとの申し開きをなし、御遠慮致す由伝えたり。
3月19日、領内の郡奉行、代官を召集致し、常々在村に赴きて百姓の苦楽の実状を知り年貢の掛け方には特に留意致すべき旨申し渡す、さらに検見のための刈り入れ時期を遅れないこと、百姓につき申しては村毎に帳面をつくり、年貢年内完納の者、春に延びる者、やむを得ない事情で減免致す者、怠惰で納入できない者の四つに分け、めいめいの名前の上に印を付けて差し出すことを命じ、特に減免につき申しては、代官にて十分吟味致し、郡奉行の指図で決定するよう指示した。
3月26日、家老池田伊賀、池田信濃、番頭土肥飛騨を勢子(せこ)大将とし、家老池田下総、土倉淡路を弓大将として半田山で大掛かりな鹿狩を行う、勢子総数5000人、弓組も発射の時期、順序を決め、進退すべて法螺貝と太鼓で合図致すこととなし、1日にして鹿45頭を仕留める。なかでも庄野三郎左衛門の子、長左衛門(14歳)初の経験なるに一矢で大鹿を射止める手柄を立てしため、翌27日城中に召し出し、その勲功を賞し児小姓に登用し、30俵4人扶持をつかわす。
4月10日、家老全員を召集致し、振舞酒を接待の上、近々公布せし重要法度を読み聞かし、その周知徹底に努力するよう申し渡す。また同日、熊沢蕃山(陽明学の中江藤樹に学び、丹後宮津藩主京極高広[子高国の代で除封]に))の紹介で岡山藩に出仕、藩政改革で家老らと対立、陽明学者でもあったことから岡山藩を去る)より領内郷村の取り締まりにつき次のごとき意見書が提出される。
一、国内で横行致す博奕を厳禁致すため、犯人を申し出し者には褒美、銀二枚をやっては如何。
二、笊振(ざるふり、地方行商人)郷村に立ち入りて商売致すは、百姓の奢侈な生活を刺激致し、その生活困窮化の原因とも相なれば、その郷村への立ち入りを禁じ、そのため生活なりたたざる笊振は日雇として国中の普請(公共土木工事)に使用しては如何。
 この蕃山の意見書を家老たちに回覧致し、その意見を開陳致させしところ、いずれも、もっともと申せしため、蕃山の意見書を取り上げこれを施行するよう申し渡す。
4月12日、岡山を発って参勤の旅に上る。
4月15日、京都に到着、早速一条家(光政の娘次女輝子の嫁ぎ先、当主は一条教輔)へ挨拶に伺候せしところ、当所にて偶然、前京都所司代板倉周防守重宗に出会う。お互いに無音を謝り会談せしが、談たまたまわが尊信する陽明学に及ぶと、重宗より、「予も陽明学には共鳴致し、平素よりいささかこの学の研鑽にも及び候が、何分にも幕府執政、酒井忠勝殿この学を異端の学として強く警戒し居られるため、備前少将(光政)におかせられても、この勉学には十分心せられるように」との忠告を受けたため、予は不快なる感じを受けしものの、時の権勢、老中に睨まれる事になれば、事態重大化の危険もあれば、今後、陽明学のことについては派手に口外しないことに決心す。

※参考文献:「殿様の生活」(荒木祐臣著 日本文教出版) 「参勤交代道中記」(忠田敏男 平凡社) 「近世武士生活史入門事典」(武士生活研究会編 柏書房) 「江戸おもしろかなし大名読本」(新人物往来社)ほか