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■享保期(1716-1735)以降から寛政改革までの幕臣採用関係の記事はないかと探したら、「小石川御家人物語」(氏家幹人
朝日新聞社)という時代小説のようなタイトルの単行本に若干掲載されていた。 御家人小野甚平が延享2年(1745)から安永2年(1773)まで、ほぼ毎日綴った日記「官府御沙汰略記」を基本資料にしている。御家人の日記だが、甚平の惣領庄兵衛はお目見となっており、日記に登場する親戚も御家人・旗本が入り混じっている。著者の近世史研究家氏家氏は、江戸初頭は旗本も含めて広義の御家人と称していたことから、タイトルに御家人の文字を使用したと述べている。 日記を書いた小野甚平は31歳で隠居し、跡目を惣領の庄兵衛に譲っている。庄兵衛の本当の年齢は14歳だが、18歳として幕府へ申告している。そのほうが跡目相続を許されやすいと判断したようだ。 隠居する前の甚平の役職は広敷添番。たぶんこの役が大嫌いだったのだろう。広敷とは大奥勤務の男子役人が詰めていた場所、大奥出入りの人・物をチェックするのは広敷番衆、広敷添番は老中が大奥に入ると、その刀を受け取って後に従ったり、大奥年寄(高級女中)の外出時に後に従ったりするのが役目だった。役高100俵。子供にもできる役目と甚平は思っていたのであろう。 甚平は儒教については学者肌、というよりもすでに儒学者として一部で名が知られていた。隠居すると甚平は、自宅で素読指導の塾を開く。伊予大洲藩(加藤家6万石)の江戸藩邸へ出入りして藩主や家来衆に講義したり、※四書の素読を指導する初心者向けの講義では、幕臣や諸藩士の子弟が伝手(つて)を通して入門を希望してくるほどの人気だった。
寛延3年(1750)11月、入門してきた幕臣の子弟に、父親が小十人番士を務める深津八十九郎という者がいた。八十九郎は1日置きに素読稽古に通って来ていた。「大学」の序から始めていたが、勉強嫌いだったようで徐々にズル休みが多くなった。翌年2月に甚平は腹が立ったらしく日記に「不精ゆえ叱り、教えず」、3月には遂に八十九郎の父親宛に「読書不精に付、指南の義断り」の旨を手紙にして通知する始末。 これを受け取った八十九郎の父親は驚き慌て、甚平の家へ飛んで来るや、どうか息子を見捨てないでくれと哀願する。なんとか四書の一つだけでも素読を修了させてやってほしい、と父親に懇願された甚平は、四書の一つ「中庸」の素読をその後7ヵ月かけて八十九郎に教え、修了させたのだった。 番方の子息はこの手が多かったようで、新番組頭の11歳の息子や先手鉄炮組与力の息子などは勉強嫌いで覚えも悪かった。こうした子息たちへの甚平の素読指導は、「論語」の学而篇や「大学」の序から始めている。が、修了へ行き着く前に甚平は彼らを破門にしていることが多い。彼らに共通しているのは、父親が熱心なこと。しかし、当の息子たちは嫌々通い向学心など皆無に等しかったわけである。 父親たちが熱心な理由は、甚平の宝暦2年(1752)12月6日の日記にみることができる。 「近藤縫殿之助(ぬいのすけ)入来る(中略)先達て御番入吟味の節、学問師範予(よ)姓名書出し候段談じ即刻帰る」 近藤縫殿之助は小十人組頭近藤金八郎の惣領。これが予(甚平)を訪ねてきて、先日行われた番入りの試験の際に提出した書類に、学問師範として甚平の姓名を記した旨を伝えに来て、即帰ったという。 事後承諾なのは父親が組頭で御家人の甚平を見下したものか、即刻帰ったのは短気な師匠甚平を煙たがっていたからのようである。 同じ年の9月には前年どうにか修了したばかりの八十九郎の父親が、近藤縫殿之助の同じ用件で訪れ、甚平の姓名を「読書師範」として記入したいと、こちらは事前に承諾を求めてきている。 1ページに記したように、番入りには学問は重視されなかったが、書式の学問の欄を空白のまま提出するのは不合格につながったものとみえる。よって、父親たちは最低限として、四書のどれでもいいから素読修了の認定をほしがったわけだ。
■甚平の孫たちの諸芸の学習稽古についてみてみよう。 甚平の惣領の庄兵衛は26歳(本当の年齢)の時、寛保元年(1741)に後の※御三卿の一家となる一橋家の小十人番士となっている。お目見である。父親の甚平がお目見以下で惣領の庄兵衛がお目見である。余程の利発か強い口添えがあったかのどちらかと推測する。甚平の親戚にあたる家の娘たちの幾人かが大奥や御三家の奥向き(奥御殿ともいう)で奉公している。あるいは外出時に従者となった大奥年寄の誰かに気に入られていたか。年少で務めていたからあり得ないことでもない。 将軍吉宗の四男宗尹(むねただ)が別家して、毎年賄料として2万俵を給与されるのが元文2年(1737)のこと。つまり、一橋家が創設されて4年後に庄兵衛は小十人となっているから、何か任用試験があり、それに合格したのかもしれない。一橋家が加増されて賄料10万石となるのは創設9年後の延享3年(1746)。吉宗嫡男の結構頼りない家重が将軍に就くのは前年の延享2年。吉宗は大御所として西の丸に健在で、亡くなるのは宝暦元年(1751)。よって、一橋家の賄料が10万石となるまでの9年間の人事は流動的であり、奥向きの意見も通りやすかったと思われる。 話を戻す。庄兵衛の息子の基蔵は宝暦14年(1764)1月、8歳の折に父親庄兵衛の弟の藤右衛門に「手跡弟子入り」している。基蔵には叔父にあたる藤右衛門は依田家に養子として入っている。依田家は先手鉄炮組与力を務める御家人であった。手跡弟子入りと習字の稽古のこと。 基蔵11歳の正月には祖父の甚平に読書入門し、翌年5月に四書の素読修了。翌月に牛込天神下の御三卿清水家小十人番士の堀江平兵衛に弟子入りし剣術稽古。14歳で弓術入門、15歳で冨士見宝蔵番(徳川歴代の珍宝を収蔵、ここを警固する役、役高100俵お目見)栗田新蔵に算術入門、16歳で馬術入門。他に謡(うたい)や小鼓(こつづみ)の稽古もしている。諸芸の師匠は幕臣や親戚であり、町方の師匠に入門はしていないようだ。 基蔵の弟の千蔵は、兄より1年早く7歳で藤右衛門に手跡弟子入り。10歳で剣術、11歳で絵師玉秀に入門、これは町方の師匠か、素読は14歳で修了、笛は親戚の師匠に入門している。鉄炮は兄弟とも叔父藤右衛門から学んでいる。稽古中に昼飯時を迎えると下男が家から稽古場へ届けており、兄弟が稽古を忙しく掛け持ちしていたことが窺える。
宝暦13年(1763)、幕府が5年に1回開催している「諸組与力同心撰人鉄炮十打見分」が行われ、先手鉄炮組与力の藤右衛門は10発10中の成績をあげ、御褒美として銀2枚(公定相場で1両2分ほど)が下賜される。これだけの腕を持つ藤右衛門だったが、「御勘定御入人吟味」を受験する。 先手鉄炮組与力は役高80俵の譜代席。譜代(世襲できる)のお目見以下の役職で、鉄炮の腕前がどれほど上がろうが昇進の望めない役職だった。「勘定」という役職は、役高150俵だがお目見であり、またお目見以下の御家人が合格しても「勘定」の次席の「支配勘定」役高100俵お目見以下の任用ではあったが、「勘定」へ上る道は開かれていたから、採用されれば立身とみなされていた。 試験問題は「算」と「筆」の二課目。「算」の一次試験は二桁三桁の掛け算と年貢徴収の簡単な計算問題、二次試験は七桁八桁の掛け算と年貢徴収の難しい計算問題が出されたようだ。「筆」の一次問題は文書の筆写、二次試験は長い文書を細い字での筆写だったようだ。 藤右衛門は6回受験して6回落ちたようである。この当時の御勘定御入人吟味の受験者採用状況は以下。
寛延
3年(1750) 受験者191人 採用者50人 倍率3.82 宝暦
9年(1759) 受験者154人 採用者45人 倍率3.42 宝暦10年(1760)
受験者124人 採用者14人 倍率8.86 明和
5年(1768) 受験者372人 採用者65人 倍率5.72
明和5年の例から試験日会場などを記しておこう。
2月16日 父親が現勘定職にある家の惣領59人の吟味 5月29日 お目見以上小普請入り他63人の吟味 6月17日 お目見以下小普請組他250人の吟味
父親が現勘定職の惣領たちの試験会場は勘定奉行石谷備後守役宅 その他の者の試験会場は大手門横の下勘定所
二次試験を経て翌年1月26日に発表された受験者内訳
父親が現勘定職の惣領59人の内25人合格 合格率42.4�l お目見以上小普請入り他63人の内27人合格 合格率42.9�l お目見以下小普請組他250人の内13人合格 合格率 5.2�l
身分と家格の武家社会が合格率に明確に表われている。藤右衛門はお目見以下であるから難しかったとは思うが、彼の実父の甚平が知人を通して現職の勘定組頭楠伝四郎と、甚平の親戚で現職の勘定奉行小野左大夫にも根回しをしていたのに不合格となっている。基準がどこにあったのか。藤右衛門の場合は運がなかった、としかいえない。
※四書 「論語」は西紀285年(応神天皇16)に百済の博士王仁(わに)によって日本へ伝えられた。日本最古の書「古事記」ができたのが712年(和銅5)だから、それの427年前であり、日本人が最初に手にした書物ということになる。 孔子の学統(学問の系統)は曾子(そうし)に伝わり、曾子の学統は孔子の孫の子思(しし)に伝わり、子思の門人に教えを受けたのが孟子であった。孔子に「論語」があり、曾子に「大学」があり、子思に「中庸」があり、孟子に「孟子」がある。従って関連深いこれらを「四書」というようになった、という。
※御三卿 成立については諸説あるが、御三卿の運営形態からすると、吉宗が将軍職に就くにあたり尾張徳川家との軋轢があったことから、将軍家の血が絶えた際の備えとして創設されたというのが正解ではないかと思う。 「田安家」は吉宗の次男宗武が享保14年(1729)別家となり賄料3万俵を給与されたことに始まる。延享3年(1746)加増されて10万石を給与。屋敷が江戸城田安門内にあったので田安家と通称される。一橋家も一橋門内に屋敷があったことからの通称である。つまり「家」を成していなかった。10万石といっても特定の領地を拝領して領主となったのではなく、賄料として給与されているので別家といっても、将軍家から独立した家ではない。御三家のように分家をつくりもしないし、家臣は幕府の直臣がほとんどであった。 形態としては将軍家の家族員に近い。「家」ではないので位官が従三位権中納言だったことから御三卿と称されたのであろう。なお、清水家は家重の次男重好が宝暦3年(1753)賄料3万俵を給与されて創設。宝暦12年(1762)加増されて10万石。江戸城清水門内に屋敷があったので清水家と通称されている。 |