「虫学」事情2                                                                                          江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 
文政2年(1819)
 伊勢長島藩主の増山雪斎が66歳で亡くなる。「虫豸帖
(ちゅうちじょう)という図譜を残す。雪斎は写生した虫は自分の友として捨てるに忍び難く、箪笥の中に収めていた。彼の死後、遺志を継いだ知友たちが虫.類の霊をなぐさめるために、虫の残骸を上野の山の境内に埋め、2年後の文政4年に虫塚が建てらた。この虫塚はいまも残っている。
 「虫豸帖
」」(東京国立博物館蔵)の絵はバッタや甲虫もあるが、ほとんどが蝶・蛾である。カエル、ザリガニ、クモ類はほんのわずかであり、この時代の中では昆虫に絞り込んだ図譜といえよう。雪斎が描いた他のものに「百鳥図」がある。鳥好きには面白いかもしれない。「百鳥図」(国立国会図書館蔵)ここをクリック。

文政5年(1822)
宇田川榕菴
(ようあん)が初めてヨーロッパの植学(植物学)を紹介した「菩多尼訶教」(ぼたにかきょう)を刊行。菩多尼訶は Botanicaの当て字で植物学の意味。榕菴は大垣藩医官の江沢家の出身だが、津山藩医官の宇田川 玄真の養子となる。また、化学についても初めて本格的に紹介した「舎蜜開宗(せいみかいそう)などがある。訳語の細胞、酸素、窒素、水素は榕菴の訳だという。

文政6年(1823)
 ドイツの医者シーボルトがツュンベりーの「日本植物誌」を持って長崎入港。翌年鳴滝(なるたき)塾を開設して多くの日本人の医学教育にあたる。

文政11年(1828)
尾張藩士水谷豊文(ほうぶん)を盟主とする本草学の同好会「嘗百社(しょうびゃくしゃ)が結成される。名前の由来は、中国古代の神農帝が百草を嘗(な)めて薬物を選別したとの故事から。参加者は尾張藩士と医者から成っていた。盟主の豊文は中級藩士で27歳の時に薬園御用となり、以後生涯にわたり藩の薬園管理を務めた。     
 豊文はシーボルトと積極的に交流しており、シーボルトが江戸参府の往復に宮(名古屋市熱田)の宿舎に泊まる折には、弟子の大河内存真(ぞんしん)とその実弟の伊藤圭介を伴って訪ねている。シーボルトとは以前から文通しており、蘭学に通じていたことが知られる。シーボルトに蝶や甲虫の標本を贈ったり、標本の採集や写生に協力している。
 
豊文の「虫豸写真(ちゅうちしゃしん、国立国会図書館蔵)の中になんとアリグモが描かれている。この時代にアリグモに気づき描いた人だけあって、実にユニークな「昆虫模型標本」を作製しているのである。これは昆虫以外の26匹を除くと150匹余りの昆虫を、体は木製、脚は針金、翅は布か紙で作ったもので自然な着色を施された実物大模型なのだという。 

 参加者の一人に尾張藩士大窪昌章がいる。この人にはクモ類18種を紹介した図譜があったようだ。シーボルトが門人の石井宗謙に蘭訳させた「蛛類図説」の原本がそれだといわれる。クモにのめり込んでいた武士がいたわけだ。
 「尾張のファーブル」と称された参加者がいる。尾張藩士吉田平九郎、字を雀巣庵(じゃくそうあん)と号した。「虫譜」の中のトンボとハチが特に素晴らしいと評価されており、トンボは46種♂♀別にハチは生態観察を主体に描かれている。
 既出の大河内存真は尾張藩医官。町医者西山家の出身だが、藩医官大河内家へ養子にいく。シーボルトが石井宗謙に蘭訳させた「日本産昆虫図に対する註釈」の原本作者。日本最小のトンボとされるハツチウトンボ(ハッチョウトンボ)の名が、ヤダノテツホウバハツチウメ(矢田鉄砲場八丁目)に由来することを教えてくれる貴重な本だという。
 伊藤圭介は大河内存真の実弟。西山姓でないのは父の旧姓に復したため。この人は「近代植物学の祖」と呼ばれている。圭介はシーボルトのもとで植物学を学び、別れ際にツュンベリーの「日本植物誌」を贈られた。この本を圭介は翻訳注解して「泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)を刊行。圭介が案出した植物用語で現在も使用されているのが、雄蕊(おしべ)、雌蕊(めしべ)、花粉などがあるという。

 
■ヨンス トン禽獣魚介虫譜
 「嘗百社
」の参加者に特徴的なのが昆虫類への関心が高いことである。杉田玄白らが解体新書を出してからヨーロッパの本草学の書物が注目されるようになったことが大きいと思う。薬用昆虫にヘビトンボの幼虫を串焼きにした孫太郎虫があるが、解体新書刊行以前の本草の主流はやはり薬用食用の多い草木であり、昆虫類に目を向ける本草家はほとんどいなかった。
   解体新書の表紙・挿絵を描いたのは小田野直武である。直武は秋田藩主佐竹義敦(号は曙山)と共に秋田蘭画を創始するが、洋画技法は平賀源内から教えられている。源内のもとにはヨンストンやドドウネスらの虫譜や介譜、魚譜などがあり、源内の物類品隲の挿絵を描いた宋紫石(そうしせき 本名楠本幸八郎)はヨンストンの図を参考に10種余りの動物画を描いている。また宋紫石の弟子の司馬江漢(しばこうかん 本名安藤吉次郎)も源内所有の銅版画蘭書を見ながらノミやシラミ、蚊などを描き、日本の銅版画創始者となっている。
 こうした流れの中で、これまで見過ごされてきた昆虫類に本草学者の目が向けられるようになり、嘗百社が開催した薬品会では標本を送付してくる者への注記として、「虫ハソノ脊(背)ノ正中ヲ布鍼(針のこと)ニテ刺シ」という作成法を配布一枚刷りに掲載するほど昆虫類の出品者が多くなっていた。この注記は洋式標本技術であり、蘭学への傾倒を知ることができる。
 嘗百社は明治維新前後は停滞するが、明治22年(1889)にその7年前に設立した交友社と合併して、「嘗百交友社」と名称を変える。同好会「嘗百社」は60年続いたわけであり、この長さは参加者の熱意を物語っているといえよう。

天保7年(1836)
 「赭鞭会(しゃべんかい)の会則が起草されている。といっても大層なことではない。ただ、赭鞭会という同好会が歴史的に意味がある。大名・旗本の本草学同好会なのである。会の盟主は富山藩主の前田利保。越中富山だから配置薬とくる。利保が本草学を好んだのも家業のようなものだったからであろう。
 会の名称は上記の嘗百社と似ており、神農帝が赤いムチで草を打って、その効能・毒を調べた故事から名付けたという。
 参加者は福岡藩主黒田斉清(なりきよ)、直参旗本として馬場大助、武蔵吉恵(よしとき)、飯室昌栩(まさのぶ)
、設楽貞丈(しだらさだとも)、佐橋佳依(よしのり)など。会合は毎月8回を限度としたというから熱心である。会合テーマは決定していた。1回草木根、2回草木茎、3回草木、4回介(貝)、5回鳥獣、6回金石、7回虫魚、8回草木種子。天保11年9月26日と10月16日はコガネムシを主に甲虫同定をテーマとし、後にその内容は「蜣螂射工図説(きょうろうしゃこうずせつ)と題を付けてまとめられている。
  黒田斉清は佐賀藩と交代で長崎の警護にあたっていたため、シーボルトと親しく本草問答を交わしたらしい。武蔵吉恵は還暦で隠居後30年余りを貝類研究に費やし「目八譜
(もくはちふ、貝の字を二分した命名、絵は画家の服部雪斎、国立国会図書館蔵)
を完成、後に貝類学が分科するきっかけをつくったとされる。飯室昌栩は約600種に及ぶ虫譜図説(早稲田大学図書館蔵)を完成させ、虫類を体系的に分類した日本初の図譜と評価されている。ただし、600種の中には河童やカエル、クモ類も入っており、昆虫といえるのは400種ほど。わたしにはクモ類が90種含まれているほうに興味をおぼえるが。
 赭鞭会は嘗百社とは違い、盟主の前田利保が嘉永元年(1848)に病気を理由に富山へ帰ると会は自然消滅したのだった。

慶応2年(1866)
 田中芳男が昆虫標本を作成し、パリ万国博覧会に出品する。芳男は既出の尾張嘗百社伊藤圭介の内弟子だった。文久元年(1861)幕府の西洋学問所である蕃所調所(ばんしょしらべしょ)に物産局ができ、圭介に出仕の命令が下される。芳男も助手格で出仕することになり、薬草園の管理を任される。フランスから万国博覧会への出品を要請された幕府は参加することになる。要請の中にパリの昆虫学者からのものがあり、それは日本産昆虫の出品だった。
 その仕事は芳男の担当となり、彼は手伝2人、お供3人を連れて関東一円の昆虫採集に出掛ける。3月から5月までの採集旅行だった。昆虫の他にクモ類、甲殻類も出品したらしいが評価は概ね良好だったようだ。
 芳男は万博への出品物の陳列・管理で10ヵ月ほどパリに滞在する。この間、植物園や動物飼育展示場、博物館などを見学する。帰国後、芳男は新政府のもとで上野の山に公園や博物館、動物園、図書館をつくることを計画し、それを実現するのである。

明治10年(1877)
 東京大学が創設される。安政5年(1858)設立の神田お玉が池種痘所を由来とする東京医学校と、安政3年(1856)設立の幕府の洋書研究・教育機関である蕃書調所を由来とする開成学校が合併したもので、法・理・文・医学部がおかれ欧米の学問が採用される。


クモ学について
 日本産のクモが世界のクモ学界にデビューするのは明治11年(1878)。ドイツのクモ学者ルートヴィッヒ・コッホによってウィーンの「動植物学会誌 第27巻」に64ページにわたる論文「日本のクモ類および多足類」が掲載され、31種類の日本産のクモが世界の学界に知られることになる。
 コッホに日本産クモ31種の標本をプレゼントした人物は特定されていないが、明治9年に明治政府のお雇い医師として来日したドイツ人医師フォン・ロレーツが採集したものではないかと推定されている。

 デビューはしたものの31種と少なく多足類といっしょであった。日本産のクモが本格的に世界の学界に知れ渡るのは明治39年(1906)、野心的な20歳代のエンブリク・シュトラントがなんと300ページに及ぶ大論文、「日本のクモJapanische Spinnen」を発表したのである。この中には440種の日本産のクモが記載されているという。この大論文が発表されるまでの経緯は以下である。
 二人のドイツ人が東京医学校のお雇い教師として明治6年(1873)に来日している。一人は植物学や顕微鏡実習を教えたフランツ・ヒルゲンドルフで、3年間滞在している。もう一人は医学者のヴィルヘルム・デーニッツで、11年間滞在している。彼ら二人が採集したクモの標本は、ベルリン博物館の助手をしていたフェルディナント・カルシュによって研究され、カルシュは明治12年(1879)と14年の2回に分けて合計85種のクモを記載した論文を発表。先のコッホより1年遅れたが種の数は3倍近い。
 デーニッツは11年間滞在した後、ドイツに帰ると400種の採集標本をフランクフルトのゼンケンベルク自然研究協会へ寄贈する。この寄贈標本の研究はベーゼンベルクというクモ学者が行ったが、研究半ばで亡くなってしまう。この研究を継いだのがノルウェーからドイツに呼ばれたシュトラントだった。記載されたクモ種が40種増えているのは、ドイツ各地の博物館が所蔵する日本産クモの標本が含まれたことによる。

   
ササグモ ♂10_ 井の頭公園で撮影  左と同個体  両写真ともクリック拡大

 さて、日本人のクモ研究であるが、それは以上のようなドイツ人研究者らの成果を基に築かれていく。わたしはハエトリグモを興味対象としており他のクモ類およびクモ学界には不案内である。よって多くを記せないのでサワリのみ記す。日本産ハラシグモの研究発表により世界に知られることになる岸田久吉(1881-1968)という学者が、昭和11年(1936)に現在の日本蜘蛛学会の前身である東亜蜘蛛学会を創設し、多くの弟子を育て日本クモ学を前進させたという。現在日本産のクモは約1000種記録されているそうである。なお上の写真は、スギタマバエというハエの仲間がいるのだが、その幼虫はスギの針葉基部に虫コブをつくって枯らす、ササグモはその天敵として利用されている。これはクモ学の成果といえるだろう。

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※参考文献 「江戸期のナチュラリスト」(木村陽二郎 朝日新聞社) 「殿様生物学の系譜」(科学朝日編 朝日新聞社) 「動物大百科15」(平凡社)他