寛永15年(1638) 花木を好んだ将軍家光が江戸城の南北に薬用植物園を造る。
貞享元年(1684) 小石川白山御殿の地を薬用植物園(小石川植物園)にする。
元禄4年(1691) ドイツの医者・博物学者であったケンペル(1651-1716)は、元禄4年、5年の二度オランダ商館長に随行して江戸に参府。ケンペルがまとめた日本の動植物、地理・気候などの原稿が、死後11年経った1727年に、「日本誌」というタイトルで刊行される。
宝永6年(1709) 黒田藩の儒者貝原益軒が「大和本草」を刊行。本草綱目の分類に益軒独自の分類を加えた上、薬用・食用にならない利点のない雑草も対象にした画期的な書。
正徳3年(1713) 大坂の町医者寺島良安が「和漢三才図会」を刊行。「三才」とは天・地・人のこと、中国の明の時代に刊行された「三才図会」にならった図入りの百科事典。日本の事象と中国の事象を並べて記述。
享保6年(1721) 将軍吉宗が小石川薬園を拡大し、薬園内に養生所を開設。
享保10年(1725) 前太政大臣近衛家熙(このえ
いえひろ)が写実画集「花木真写」を作成。この中に渡来したばかりのブラジル原産の植物トケイソウが描かれている。
享保13年(1728) 広南(かんなん ベ
トナム地方)産のゾウ♂♀二頭が長崎入港。ヨンストン(オランダ・ライデン大学医学教授)の動物画にあるゾウを見た将軍吉宗の要望だったという。♀ゾウは死んだが♂ゾウ(7歳)が翌年4月従四位に叙せられ中御門天皇、霊元法皇と対面。翌月には吉宗と対面。吉宗が気に入ったため寛保元年(1741)までの13年間棲家の浜御殿から江戸城へたびたび伺候する。 中野村の源助に貸下げられるが翌寛保2年に21歳で死亡。頭骨と牙は将軍家の鷹狩休息地でもある中野村宝仙寺にあったが、昭和20年大空襲により現在は黒焦げの牙一本を保存。なお、ゾウの日本への初渡来は応永15年(1408)、正体不明の南蛮船が4代将軍足利義持へ献じたという。
享保19年(1734) 幕府医官丹羽正伯が日本各地の産物を書物にまとめたいと上申。願いが許され、老中松平乗邑(のりさと)が各藩に産物帖を出すように命じる。産物帖は穀・菜・菌・瓜・菓・木・草・竹・魚・貝・鳥・獣・虫・蛇・金など鉱物岩石の順に記入させ、方言名や品種名も記述させた。この各藩からの産物帖は4、5年後に出揃ったらしいが、正伯が宝暦6年(1756)に亡くなると行方知れずとなったらしい。ともあれ、これ以降、各藩に産物への意識が高まった。
享保20年(1735) 町儒者青木文蔵(昆陽)が薩摩芋御用掛りとなり、小石川薬園にサツマイモを試作して成功。これ以降、関東以北にサツマイモの栽培が普及していく。
元文3年(1738) 丹羽正伯が師の加賀藩儒者稲生若水(いのう
じゃくすい) が未完に終わらせた「庶物類簒」(しょぶつるいさん)を完成。この書は中国の文献に出てくる天産物(動物・植物・鉱物)が日本の何にあたるか考証したもの。
寛保元年(1741) 幕府医官野呂元丈(のろ
げんじょう)は阿蘭本草御用(おらんだほんぞうごよう)を命じられ、幕府書庫にあったヨンストンとドドウネスの本草書を江戸参府したオランダ商館長、書記、外科医に通詞(翻訳官)を介して質問し、「阿蘭陀禽獣虫魚図和解」(おらんだきんじゅうちゅうぎょずわげ)、「和蘭陀本草和解」(おらんだほんぞうわげ)を作成。以後、西洋本草へ目を向けるきっかけとなる。
宝暦7年(1757) 平賀源内の師田村藍水(らんすい)が源内の企画で第一回薬品会(やくひんえ)を開催。薬品会は各地の産物を集めた物産展。藍水は朝鮮人参の栽培を手がけ市場を立てるまでにした功により、6年後に幕府医官となっている。
宝暦12年(1762) 第五回薬品会を平賀源内が主宰。この回が最大規模となる。翌年源内は合計五回の薬品会の出品物の中から360種を選んだ「物類品隲」(ぶつるいひんしつ)を刊行。この書は源内に名声をもたらしたもので、分類は本草綱目にならっているが、従来の動物標本が乾燥したものでだったのに比べて、ガラス瓶の中の薬水に蓄えた保存法が画期的であった。ここをクリック、「物類品隲」(早稲田大学図書館蔵)の一部図。
安永3年(1774) 小浜藩医官杉田玄白、中津藩医官前野良沢、小浜藩医官中川淳庵、幕府医官桂川甫周(かつらがわ
ほしゅう)らが「解体新書」を刊行。これ以後、蘭学が注目されていく。
安永4年(1775) スウェーデンのリンネの弟子ツュンベリー(1743-1828)がケンペルの「日本誌」を持って長崎入港。翌年オランダ商館長に随行して江戸参府し、中川淳庵と桂川甫周の二人と親しく交わる。ツュンベリーは8年後に「日本植物誌」を著わし、リンネの後を継いでウプサラ大学教授となる。後に学長となって名声は師のリンネを超えたという。 ヨーロッパでも医者は本草学から薬を知るのだが、リンネの考えは薬効があろうがなかろうが、すべての植物種は神が創造されたものだとして研究対象にし、それまでに知られていたすべての植物に学名を与えたのであった。
天明8年(1789) 浮世絵師喜多川歌麿が絵入り狂歌本「画本虫撰」(えほんむしえらみ)を刊行。草木と昆虫が描かれた絵に狂歌を添える趣向で、見事な博物図譜ともいえる。歌麿にはこうしたものが他にもあり、「潮干のつと」(しほひのつと)や「百千鳥」(ももちどり)がそれにあたる。江戸期の他の博物図に見られない歌麿独自のものとして、表情を挙げることができる。
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■百千鳥(東洋文庫蔵) | 左図はただのハトなのだが、物凄い目付きである。どこの公園にもハトはいる。餌をあげる家族連れの姿はよく目にするところだか、ハトたちは決して仲良く餌をついばんでいるわけではない。いじわるなヤツがいて、他のハトに喰わせないようしつこく追い回していたり、ケンカを仕掛けたりしているのに出会う。結構いじわるなハトがいるのだ。 この絵は歌麿の自然への観察眼の鋭さの証左といえ、平和の象徴などとんでもない話なのだ。 「画本虫撰」にはクモも描かれており、さすが歌麿であるが、トンボやクツワムシの絵に比べると上手くはない。絵のクモは網を張る種であり、これがハエトリグモなら趣きが変わったであろう。歌麿が描くハエトリグモ、見たかったと思う。
寛政11年(1799) 仕官せず京都に長年居住していた小野蘭山の名声は高かった。ために幕府は彼を江戸へ召し寄せ、幕府の医学教育機関である医学館で本草の講義をさせた。4年後の享和3年(1803)「本草綱目啓蒙」を発刊し3年後に刊行終了。「本草綱目啓蒙」は李時珍の書を蘭山が訳し、補注を付記したもの。日本各地の産物の呼び名にも触れており、これまでの日本の本草学書物の集大成といえよう。日本の本草学を植物分類学へ転換した第一人者といわれる牧野富太郎が、若い時に読み耽り、後の日本植物研究に役立てたという。
文化8年(1811) 幕府医官の栗本丹洲が「千虫譜」を完成。丹洲は平賀源内の師である田村藍水の次男だが、幕府医官の栗本家の養子となった。本草学書物の中で虫類の書物がほとんどないに等しいことから、自ら18年をかけて完成させたという。「千虫譜」の中にクモ類の図譜があり、「蝿取グモ」(国立国会図書館蔵)が登場する。ボケぎみの文字もあるが、絵の添え書きは以下のようになる。
蝿取グモ一種 白褐ニシテ黒色ニ(ノの誤りか)條(すじ)アリ、眼朱ニシテ至(いたっ)テ美ナリ、能(よく)蝿ヲ取事尋常ノモノニ優レリ、好事ノ人小匣(こばこ)ニ養(やしない)腰間ニ帯テ客対ノ席ニ蓋(ふた)ヲ開キ出シテ蝿ヲ取シムル事ヲ戯トス、能取モノヲ逸物ト名付テ貴重スト云
座敷鷹のことが軽く触れられているが、基本であるサイズの表記はない。ま、虫といっても爬虫類や棘皮類なども入っているから、この時代の虫類の範疇の広さが知られる。添え書きのハエトリグモの種類だが、絵を見るとこのハエトリグモはチャスジハエトリ♂だと思う。目が赤く見えたのは光の加減だろう。目の周辺が赤いということならミスジハエトリ♂だが、絵はそうなってはいない。また、文言からすると、目が赤いハエトリグモは普通のものよりハエを獲るのが巧み、という俗説があったことを窺わせる。 |