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敵討の作法3                                                                    江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

敵討の作法3

■「妻敵討」。「めがたきうち」と読む。出奔した姦夫を追って殺害することだが、室町時代には親の敵と同様に取り扱われたが、江戸時代では幕府、諸藩によって取扱い方が異なった。
 妻を寝取られた夫は、現代から見ても情けなく、男の恥に思われる。江戸後期の作とされる「武道心得草」には、「密夫ヲ討ヲヲセテ手柄トスルニ足ス、惟(ただ)自分今迄ノ自堕落ノ眼ノ覚タルト云計(いうばかり)也」と記述されている。姦夫を討ち果たしたところで自分の不用心を反省する一助になるだけ、というのである。
 妻の不倫は元を糺せば夫のせい、という意識は高かったようで、殊に福井藩では、寛保元年(1741)12月、江戸詰めの大御番組家禄200石の村上三郎右衛門が妻敵討を願い出た翌日に村上を改易処分としている。幕府の場合は少し異なるが、消極的だったことは間違いない。確実な証拠なしに妻敵討をしてはならなかったようで、享和元年(1801)、西丸小納戸奥之番大井新右衛門は妻と養子の密通を知ると、用人(旗本の家臣、執事役)を証人に立て、妻と養子から、「両人共密通相違無之(これなし)、いかやふニ相なるも不苦(くるしからず)」という書付を取った後に二人を成敗したという。

■しかし、積極的な藩もあった。
 元禄12年(1699)、鳥取藩の藩士宮原三郎兵衛は江戸で妻の姦通の事実を知らされるや、直ちに扶持を返上し暇を願い鳥取へ戻り、妻を斬り捨てる。そしてすぐに妻敵討の旅へ出て二年後、江戸宇田川町で妻敵の僧を遂に討ち果たす。藩庁は待ちかねたように帰参を許している。
 鳥取藩の「在方諸事控」という史料の明和2年(1765)11月13日の記事に、安田軍平という藩士が妻敵討に要した費用を藩から分割払いで貸与されたことが載っているという。鳥取藩は熱心だったようだ。
 岡山藩も熱心で、妻敵討には作法まであったようだ。天保10年(1839)3月、弓組家禄180石河村伝九郎の妻が日雇いで使っていた大工清次郎と出奔する。二人が播州赤穂へ逃げたのを突きとめた伝九郎は、二人を連れ戻し姦通の事実を確認した後に成敗。その後、伝九郎は槍1本弓2張を残して藩外へ退去する。
 岡山藩の藩士は妻敵討を果たした後、ほとんどが槍1本を残して藩外へ退去する。これがこの藩の作法だったようで、後に帰参を許されているのである。
 百姓・町人にも妻敵討は許されていたが、姦夫姦婦を殺害するよりも、妻の髪を切ったり姦夫から詫び状と謝罪金(首代と呼ぶ)を取るような、内済にすることを薦められている。
 ところで、明治40年(1907)まで日本では姦通した妻と相手を殺傷しても、夫は大目に見られていた。このことはヨーロッパでも大差なかったようである。
※参考資料:「新しい近世史1」(山本博文編 新人物往来社)に収録「恋の制裁ー妻敵討をめぐって」(氏家幹人執筆)など

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