■「井の頭」名の由緒
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■弁財天堂(社)と井の頭池 | 井の頭公園(正確には東京都立井の頭恩賜公園)に自然文化園という施設がある。動物園や彫刻館などがある施設なのだが、住居表示ではここだけが武蔵野市であり、井の頭池やジブリ美術館などは三鷹市となる。 1960年代初頭に「井の頭」の住居表示をめぐって、三鷹市と武蔵野市の間でちょっとした競り合いがあったらしい。読売新聞(05/03.01)によると、武蔵野市側で住居表示に「井の頭」を使用する案が浮上した、これを知った三鷹市側が中止を申し入れた。現在の住居表示を見ると井の頭池の南辺から神田川沿いに三鷹市井の頭4丁目から1丁目の順に並んでいる。この地区は昔から俗称として井の頭と呼ばれていたので、武蔵野市は三鷹市側の要望を受け入れ使用中止となった。 三鷹市に井の頭の住居表示が登場するのが1965年。それ以前は「牟礼」(むれ、現在も住居表示名として残る)という住居表示だった。井の頭町内会は、花見の季節になると消防団と協力して井の頭池の周りを警備しているそうだ。
さて、肝心な「井の頭」なる地名の由来である。代表的なものが以下。
現在は涸れたが(ポンプで汲み上げている)、池には清水が湧き出す七つの井戸があり、周辺の村々では七井の池と呼んでいた。寛永6年(1629)、3代将軍徳川家光が鷹狩に訪れた。その折に池の名を土地の者に尋ねた。その返事が「なない」だった。家光は「なない」を「名無い」と理解して、水の源である「井の頭」という名前にせよと自ら命名。さらに、弁財天の近くに立つ辛夷(こぶし)の木の幹に、「井の頭」と小刀で刻んだ。
しかし、家光ではなく家康とする説、いや秀忠だとする説があり、実のところは確定できないようだ。が、いずれにしても江戸時代の初期に「井の頭」と名付けられたことは疑いないといえる。地元では家光説を採っているようだが、これは寛永13年(1636)に家光が弁財天堂を建立したと伝えられていること、由来話としての面白さが挙げられよう。 なお、井の頭池の弁財天堂は天慶年間(938-946)、関東源氏の祖とされる源経基による創建、祀られている本尊の弁財天像は延暦8年(789)、最澄の作と伝えられる。源頼朝や新田義貞が戦勝祈願に訪れたというから、源氏を標榜する徳川家が丁重に扱ったのも得心できるところである。
←歌川広重 「名所江戸百景・井頭池弁天の社」 名所江戸百景の制作期間は安政2年〜5年(1855〜58) ↓歌川広重 「名所雪月花・井頭弁天の雪」 名所雪月花の制作期間は弘化4年〜嘉永5年(1847〜52)
■家康以前の江戸 「江戸」とは河口を意味する言葉である。康正元年(1455)扇谷上杉氏の執事職にあった太田道灌が江戸に入った頃、現在の西新橋、日比谷公園、皇居外苑の地は日比谷入江と呼ばれていた。新橋の対岸に愛宕山、有楽町の対岸に霞ヶ関があり、日比谷入江の最奥部に平川の河口、この河口を挟んだ左右に居館跡(東国平氏の主流であった江戸太郎重長の居館)と将門首塚があった。 太田道灌は居館跡に江戸城本丸を築いた後、平川河口部の洪水防止と江戸湊の拡張から平川の流れを、現在の一橋付近から掘削して流露を変更(現在の日本橋川)し、それまでの平川の川床を江戸城外堀へ転用した。 道灌の死(1486)後、江戸城は扇谷氏が38年間維持、大永4年(1524)に北条氏綱に占拠され北条氏が66年間維持した後、天正18年(1590)家康が入ってくる。この間100年余り、太田道灌の時代まで日明貿易の硫黄や鉄など鉱産物の集荷地として栄えた江戸湊は、武蔵と下総の国境にある城郭所在地としての意味しかなかったようだ。
ここまで名前が出てきた川は平川のみ。この平川の現在名が神田川なのである。神田川は井の頭池からスタートする。合流してくる川が杉並区・中野区の境から善福寺川、中野区・新宿区の境から桃園川、新宿区下落合から妙正寺川、中野区江古田公園付近から江古田川。下落合からは高田馬場、戸塚、早稲田と流れ、文京区で谷端川(やばたがわ、小石川とも称す)と合流した後、千代田区三崎橋から神田川と日本橋川に分流して共に都心部を流れ隅田川へ注いでいく。この内、桃園川と谷端川は暗渠・下水道化したようで地表面では見ることはできない。
■神田山 江戸城入りした家康は慶長12年(1607)までに、外国船からの艦砲射撃を避けるため、本郷台地先端の神田山を崩して日比谷入江を埋め立てた。牛ヶ淵(現在の北の丸公園)の湧き水や千鳥ヶ淵と赤坂溜池に流れ込む零細河川を堰き止め、江戸城内の上水に利用した。これら上水源の見立ては大久保藤五郎(主水 もんと)によると伝わる。 元和2年(1616)駿府で家康が亡くなると、駿府の行政組織を江戸に一元化するため、駿府の家康遺臣らの宅地が必要とされた。元和6年平川が小石川(谷端川とも称す)と合流していた現在の千代田区三崎町から神保町、一橋一帯を宅地とするため、小石川の流れを三崎橋からほぼ直角に曲げて神田山を開削した掘割水路へ流した。平川も現在の三崎橋と堀留橋の間を埋め立て平川を分断し、小石川同様に神田山掘割水路へ流した。これが御茶ノ水の掘割で、神田山は駿府衆が移住する駿河台となった。 この頃の御茶ノ水の掘割は放水路であった。舟が通れるようになるのは万治3年(1660)、拡幅工事にあたったのは仙台藩、4万9504両を要したという。
■神田上水 幕藩体制が確立するにつれ江戸に人口が集中し、上水道の確保が急迫した問題となってくる。幕府が日本初の水道を設計するのは寛永期(1624-43)であった。「神田上水」がそれなのだが、地表面に見える流れとしてそう呼ばれたのは井の頭池から目白台の崖下にある関口までで、ここにある大洗堰(おおあらいぜき)で上水と吐水(はきみず 余水)に分かれるのだが、堰を越えた吐水の流れは「江戸川」と呼ばれ、江戸川は江戸城外堀に落ちる。この落ち口までが江戸川で、落ちた外堀から御茶ノ水の掘割を経て隅田川に注いでいく流れを「神田川」と呼んだのであった。
関口の大洗堰で上水となった流れは素掘の上水堀を通り、水戸家上屋敷(現在の後楽園)内を流れた後、現在の水道橋付近で神田川の上に掛けた樋を渡り、内神田に入る。ここから先は暗渠となって神田一円に給水、神田橋御門で二つに分かれ、一つは江戸城内へ、一つは神田橋外より内堀沿いに京橋川北方へ向かい、あたりの町々へ給水した。 神田上水は後の承応2年(1653)に計画着手された玉川上水のように新たに開削したものではなく、武蔵野を流れる自然河川に手を加えた程度で関口まで引いたものだという。神田上水の付近の村々は、上水ができる以前から田畑に水を引いて灌漑用水として利用していたのだった。 神田上水と玉川上水の給水範囲は、京橋川を境に北が神田上水、南が玉川上水だった。境の八丁堀あたりは絶えず水不足だったそうである。
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■左図は「江戸名所図会」から「目白下大洗堰」の一部 堰があるためこのあたりを関口と呼んだ。石が敷き詰められており、長さ18メートル、横幅12メートルほどあった。俳諧の松尾芭蕉は主家伊賀藤堂家が堰工事を幕府によって命じられた折り、工事に従事したといわれる。 堰は大正2年(1913)に宮内省から東京市に移管、大正8年に史跡として保存、昭和12年(1937)江戸川改修工事によって堰はなくなった。 江戸時代の堰周辺の様子を知ることはできないが、小説家池波正太郎は「闇の狩人
(下)」(新潮文庫)で次のように活き活きと蘇えらせている。なお、神田川と表記しているが神田上水が正しい。ま、細かいことは言わぬが花。
弥太郎は、崖下の細道から大洗堰の石畳へ走った。 なにしろ、暗い。 草むらの細道を駆けていては、神田川の中へ落ちこみかねない。 弥太郎の手から、すでに提灯は落ちていた。 堰の石畳を走る弥太郎の背後から、 「待てい!」 青木九十郎が早くも大刀をぬきはらい、猛然とせまって来て、 「うぬ!」 弥太郎の背中へ、斬りつけた。 くるりと弥太郎の躰がひらいた。 「あっ・・・・」 青木としては、まさに、 「必殺の一刀」 だったに相違ない。 完全に、 「斬った!・・・・斬れた!」 と、感じたろう。 だが、弥太郎は闇の山野を走る獣のように鋭敏な直覚で、青木の襲撃をかわした。 堰の激しい水音にも、その直覚は狂わなかったのである。 かわされて、青木は足をすべらせ、石垣から川の中へ落ちそうになった。 「む!」 ふみとどまって振り向いた青木九十郎の腰から、片ひざをついた谷川弥太郎が、差しぞえの脇差を引き抜いた。 「うわ・・・・」 大刀を振りかぶった青木だが、振りおろすには、弥太郎の躰が、あまりにも接近しすぎている。 身を退こうにも、退く場がなかった。 弥太郎は青木の腰から、うばい取った脇差を、そのまま青木の腹へ突き刺し、す早く横ざまに、みずから倒れた。これは青木の返り血を避けたのである。 「ぎゃあっ・・・・」 青木九十郎の絶叫が起ったけれども、堰の水音に消されてしまった。 青木は、大刀を石畳の上へ放り出し、のけぞるようにして神田川へ落ちこんで行った。
※参考資料「江戸の川
東京の川」(鈴木理生 井上書院 「江戸上水道の歴史」(伊藤好一 吉川弘文館)他 |