■十五日神田明神祭礼(参照ページ「山王祭」、こちらのほうが詳しい) 丑、卯、巳、未、酉、亥年の隔年に大祭がある。江戸の大祭は六月十五日の山王大権現の御祭礼、次に九月十五日の神田明神宮の御祭礼、この二祭とも将軍家御城中へ神輿、練物が引き入れられる。この祭礼を江戸両祭といって江戸ッ子の勇ましき御用祭といわれる。 江戸に祭礼が多いなか、至極盛んな祭礼で江戸の江戸たる繁昌の印(しる)しは、この両祭と勇ましき江戸ッ子の意気地である。 定めた祭り場は混雑して道路で人が死ぬこともあるが、思いの他に整々粛々たるものである。また、道路を取締る役人や掛かり人が一人もいないのに、江戸の名物と呼ばれる喧嘩はこの祭にはない。ないのではなく、よく鎮(しず)めたことによる。その鎮めた事柄が破られ、一朝(いっちょう、ひとたびの意)の椿事(ちんじ、意外な出来事)が起これば利欲を捨て死を惜しまないから、口外無用の言ってはならない大事となることもある。 御祭礼当日は往来は人を留めみだりに通行を許さない。横町小路は柵を結び置き、厳しく警戒して御神輿の渡御(とぎょ、神輿のお出掛けの意)を待つ。 御神輿行列は、太鼓、御幣、社家騎馬(しゃけきば、神官を乗せた馬)、神馬(しんめ)、社家騎馬、長柄、小旗十本、この他に諸侯方より長柄の鑓と神馬を出す、その供奉警固する者たちの装いは厳重である。 山車番組は一番が大伝馬町の諌鼓鶏(かんこどり)、太鼓、太鼓は溜色(ためいろ、あずき色のこと)の蔦の金蒔絵が施され、諌鼓鶏は白鳥である。二番は南伝馬町で猿舞。次は御雇、本材木町四町分、弥左衛門町、新肴町で大神楽曲芸師の丸一と大丸、独楽曲芸師の源水が演ずる。三番は神田旅籠町で能の翁の舞い、この仮面は名工が彫ったものという、翁人形の衣紋(えもん)は能役者の何某が毎年着せるという習慣があるらしい。四番は同二丁目で和布苅龍神(めかりりゅうじん)。五番は鍋町。六番は通新石町で歳徳神(としとくじん)。七番は須田町一丁目。八番は同二丁目で関羽人形、これは名作である。九番は連雀町で熊坂長範。十番は三河町一丁目で天狗僧正坊と牛若人形。十一番は豊島町と金沢町。 次に神輿。次に一の宮の行列が続く、その順番は長柄鑓、社家騎馬、太鼓、獅子頭、二つ、田楽、社家騎馬、御鉾、社家騎馬、神馬、社家騎馬、御太刀、社家騎馬、御太刀、社家騎馬、長柄鑓、鼻の高い面を付けた伶人(れいじん、雅楽の楽人のこと)、御幣、素襖を着た者、大拍子木、神輿、神几、社家騎馬と続く。 次に二の宮の行列が続き、鼻の高い面を付けた伶人、御幣、素襖を着た者、大拍子木、神輿、神几、社家騎馬、白張(しらはり、白麻の衣・袴のこと)と素襖を着た者、神主、轅、社家騎馬、長柄鑓、突棒を持った者と続く。 次に十二番、岩井町の菊慈童人形(きくじどうにんぎょう)。十三番は橋本町で二見ヶ浦。十四番は同二丁目で乙姫。十五番は佐久間町一丁目、二丁目で龍宮の唐門。十六番は同三丁目四丁目の素盞鳴尊(すさのうのみこと)で美しい作である。十七番は久右衛門町一丁目、二丁目の蓬莱(ほうらい、仙人が住むという山)の山車。十八番は多町一丁目で石台(せきだい)と稲穂。十九番は同二丁目の鍾馗大人形、美しい作である。二十番は永富町の龍神。二十一番は竪大工町の棟上人形。二十二番は蝋燭町と関口町で松と大盃。二十三番は明神下西町で大黒天人形。二十四番は新銀町の武蔵野。二十五番は裏新石町の戸隠人形。二十六番は新革屋町の弁天。二十七番は鍛冶町で近年新調した小鍛冶宗近の人形。二十八番は元乗物の岩と牡丹。二十九番は横大工町の武蔵野。三十番は雉子町の白大雉子。三十一番は三河町四丁目の武内宿禰。三十二番は御台所町の石橋。三十三番は皆川町二丁目、三丁目の汐汲み。三十四番は塗師町の猩々(しょうじょう)人形。三十五番は白壁町の蛭子の神人形。三十六番は松田町の源頼義人形と続く。 当日は桜の馬場を繰り出し所と定める。未明に御茶の水河岸通りから昌平坂を上り右へ向かい本郷竹町を曲がって本郷通りに出る。明神本社の前の湯島の坂を下り、旅籠町から仲町加賀原の間を筋違御門へ入る。須田町・鍋町から西方向へ曲がり、同西横町、横大工町と行き、三河町三丁目を左へ折れ、同一丁目の河岸から神田橋を渡り、御堀端通りの本多家御屋敷に沿って護持院原北側を行き、そこより飯田町の魚板橋(まないたばし)を渡り、中坂を上って田安御門より御曲輪内(おくるわうち)へ入る。竹橋御門を出て一ッ橋御館前に出る。神輿は御館の内に入ると奉幣がある。奉幣するのは、ここが当社の旧地だからである。ここから大手前の酒井家と小笠原家の御屋敷に沿い、松平越州侯の御屋敷前から常盤橋を出る。この頃になると夕景色となり各々列を乱して散会するようになる。神輿のみは行列を揃え本町通りで石町・鉄砲町・大伝馬町・堀留町・小網町と行き小舟町河岸へ出る。そして瀬戸物町・伊勢町河岸・本船町と行き小田原町河岸から日本橋を渡り通一丁目から京橋まで行く。ここから北詰東の河岸・本材木町七丁目から一丁目河岸まで行き四日市から日本橋へ出る。室町一丁目から通町筋違・昌平橋を渡り湯島河岸から聖堂脇の坂を上り、御本社へ還幸する。夜になるまで産子(うぶこ、氏子の意)の町々からの奉送の提灯の光が、空を焼くように輝くのである。 神田は西神田・東神田・外神田の三つの区域がある。西神田は今川橋から北の筋違までの西一円を西神田とする。東一円を東神田とし、筋違橋御門外を外神田とする。 この三地域により祭礼には出来不出来がある。年番山車は山王祭と同じで、神田・山王とも天保以後は質素を守るよう厳しく規制されている。よって文化文政の全盛期にはまったく及ばない。祭礼の山車、練物に付き従う者たちは紗・綾・金繍を衣類に用いることが禁止され、すべて木綿染めという御旨意(ごしい)である。しかし、後に漸く御旨意を犯し木綿を新調して町方役人衆の下調べを遣り過ごし、祭礼の当日には密かに新調した紗・綾・金繍・縮緬の衣類を晴れを尽くして着飾るようになったが、それ以前の文化文政の全盛期は夢のごとくになってしまった。 |