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■江戸年中行事&風俗                                                   江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

山王祭
 六月十五日は永田馬場日吉山王権現御祭礼である。この祭礼は隔年で子寅辰午申戌の年に行われる。江戸御用祭なので祭礼費用は膨大となる。殊に文化文政期は全盛時で言い尽くせぬ華やかさであった。
 山王権現の産子(うぶこ、氏子の意)の町としては、南は芝口、西は麹町、東は霊岸島、小網町、堺町を限りとし、北は神田に至る。祭礼山車の番組は全部で四十五番とし、町の数は凡(およ)そ百六十町余りとする。町々は十ヵ年ごとに年番というものに当たると土地相応の賑わいとなる。年番町は二、三ヵ所ずつあるので、その賑わいの光景を色々と考案するのである。
 往来を補修して小砂利を敷きつめ、道の両側へ間塞(ませ、竹と木でなどで作った低目の荒い垣)を構え、間塞に高張提灯を多く立て、家の軒には提灯を連ねて造花(つくりばな)を差して幕を掛ける。軒下には青い丸竹の欄(らん、囲いの意)を設け囃台を組み上げて神楽や手踊りを催す。造り庭には酒樽、菓子蒸籠(かしせいろう)、魚の盤台桶を屋根より高く積み飾り、その上に茶船、荷足天満船(にたりてんまぶね)を載せ、造り花を設けて数百の提灯を点(とも)す。山車には小屋を掛け、そのなかに飾り手踊りの屋台、地走り(じばしり、屋台がないので歩きながらの手踊り)の手踊りが付き従う。町内の少女子は金棒引き(かなぼうびき、鉄棒の頭部に数個の鉄輪をつけたものを突き鳴らして警告する人)の姿で、地主家主は上布帷子(じょうふかたびら、上質な麻布で仕立てた裏地のない衣服)、紗(しゃ、うすぎぬのこと)の袴、そこに小刀を帯し花笠を被った姿で出る。職人は親方などは肌を脱いた派手な姿で山車や手踊りの屋台を警固して連なる。
 以上が年番町の例だが、土地によって賑やかさに差が生じる。また山車年番というのがある。これは五年ごとに当たり、山車の修理や新規作り直しをする。旧に変わる所がある場合は、町奉行所へ願い出て後に改める。これは将軍の上覧に供するための慎重な処置なのである。年番町や山車年番に当たらない町々は、軒提灯、山車、小屋だけを出す。大通り町は祭礼ごとに年番町のように町内を飾り立てる。
 山車の警固はまず第一に金棒引き、次に拍子木、次に女子が男仕立てした金棒引き、次に割竹引き、次に町内の若い者、次に手子舞い(上記の女子が男仕立てした金棒引きで、木遣りを歌いながら歩く)、次に祭礼の印半纏で打ち揃う鳶の者、その数は百人に近く少なくみても二十人を下らない。次に山車、次に茶湯の用意、次にに床几しょうぎ、脚がX型の折り畳みができる腰掛)持ちと続く。
 十四日夕方から十五日夜まで武家方は出門を禁じられている。町人の権勢が実に盛んになった天保御改革以後は、祭礼に無益な費用をかけるなとの厳制であるが、木綿と偽り絹布や縮緬を用いたり、摺込摺画模様(すりこみすりえもよう)と申し立てて金襴を用いたりしている。
 
 山車は牛二疋で引くものと三疋で引くものがある。山車の番組順を紹介しよう。一番が高尚なる諌鼓鶏(かんこどり)と太鼓を繧繝極彩色(うんげんごくさいしょく、うんげんとは立体感や装飾効果を狙った彩色法)に作り上げた大伝馬町。二番は猿舞いの面は名のある工匠が作ったという南伝馬町。三番は麹町の猿(男猿と女猿が隔年で出る)と十三町分の騎射人形、平河町と山元町が傘鉾(かさほこ)と称するもの六本を出す。次は御雇(おやとい)で新肴町、弥左衛門町、本材木町一丁目、二丁目、三丁目、四丁目による大神楽、熱田派の丸一家と大丸家が演ずる。四番は剣(つるぎ)に勇ましく水車と紫の吹貫(ふきぬけ)を付けた山王町、南大坂町、丸屋町。五番は小舟町、堀留町一丁目、二丁目、堀江町の四町だが山車を出さない、御初穂(おはつほ)の銀子(ぎんす)を納めるのが例となっている。六番は桶町の浦島太郎の人形花山車。七番は仲秀英(なかしゅうえい、山車人形師)の作となる美しい弁財天人形で本町四町分、岩附町、本革屋町、金吹町。八番は春日龍神の能人形、この面は名作である、駿河町、品川町、品川町裏河岸、北鞘町、本両替町。九番は静御前で瀬戸物町、伊勢町、本小田原町。十番は加茂の能人形で室町三町分、本船町、安針町、本町三丁目裏河岸。十一番は本石町四町分の浄妙(じょうみょう、三井寺の僧兵筒井浄妙のこと)と一来法師(いちきほうし)の人形、その具足は高名な工匠の作であり、美を尽くした山車となっている。十二番は西河岸町の武内宿禰(たけのうちすくね、大和朝廷の初め五代の天皇に仕え国政を補佐したという伝説の大臣)。十三番は天照皇太神宮で本銀町(ほんしろがねちょう)四丁目、元乗物町、新革屋町、新石町一丁目。十四番は神田鍛冶町と鍋町による花山車二本。十五番は須田町、通新石町(とおりしんこくちょう)、連雀町による花山車。十六番は鎌倉町と三河町一丁目だが、十四番、十五番と同様に付け祭りとして神田明神の氏子から出す。十七番は小網町が漁船の花山車、これも花山車の逸物。十八番は新材木町の花山車。十九番は新乗物町
の花山車。二十番は堺町、葺屋町、住吉町、難波町、高砂町より花山車三本。二十一番は新大坂町、田所町、通油町、以前は龍神の山車であったが安政の頃より蘭陵王(らんりょうおう)の雅楽舞い人形に改まった、美しい山車となったが一度だけ引き出したままその後はどうなっているのか。二十二番は能の熊坂で富沢町と長谷川町。二十三番は銀座四町分で分銅に槌の鉾と花山車。二十四番は神功皇后(じんぐうこうごう)の魚釣り人形で、この祭礼のなかで第一の名物として有名である、通り町四町分、呉服町、元大工町。二十五番は龍神の山車を檜物町(ひものちょう)、上槙町、後上槙町(のちかみまきちょう)が能の石橋(しゃっきょう)の山車に新調した。二十六番は本材木町四町分で花山車。二十七番は青物町、万町(よろずちょう)、元四日市佐内町で花山車二本。二十八番は大鋸町(おがちょう)、本材木町五丁目、六丁目、七丁目で大鋸(おおのこぎり)の山車二本。二十九番は長崎町、霊岸島町、東湊町で雅な茶筅茶壷(ちゃせんちゃつぼ)の山車。三十番は新右衛門町、平松町、音羽町、小松町、川瀬石町が鯨猟の山車、正町(くれまさちょう)が佐々木高綱の勇ましい山車。三十一番は箔屋町、岩倉町、下槙町、福島町で花山車。三十二番は本八丁堀五町分で神功皇后三韓(新羅、百済、高句麗のこと)征伐の人形とその囃台を御座船のように作った山車。三十三番は本湊町で花山車。三十四番は南紺屋町、西紺屋町、弓町で義経弓流しの山車。三十五番は竹川町、出雲町、芝口一丁目西側でこの山車はとても美しいと評判だったが焼失、後は能の嵐山の山車となる。三十六番は弥左衛門町、新肴町で斧と鎌の山車。三十七番は本材木町八丁目、柳町、具足町、水谷町で牛若丸五条橋の人形。三十八番は南鍋町と山下町で宝船。三十九番は数奇屋町で茶引小僧の人形。四十番は霊岸島四日市町、霊岸島塩町、箱崎町一丁目、北新堀町、大川端町、南新堀町一丁目、二丁目で八乙女(やおとめ、神楽や舞いで奉仕する八名の巫女のこと)四十一番は五郎兵衛町と北紺屋町で花山車。四十二番は元飯田町。四十三番は南大工町。四十四番は常盤町。四十五番は霊岸島銀町。(四十二番〜四十五番は花山車か?)
 次に神輿行列が続く。小旗、大旗、長柄鑓が多く列(つら)なり、太鼓二ッ持人十一人、拍板(びんざさら、田楽などに用いる楽器)二人、田楽二人、獅子頭二ッ持人二十四人、社家騎馬(乗馬した神官)、飾り鉾三本持人三十二人、社家騎馬、神馬しんめ、神社に奉納された馬)、社家騎馬、神馬三疋、御太刀を佩(は)いた社家騎馬三人が続く。
 一の宮に供奉するのは、大伝馬町と南伝馬町の社家騎馬、高い鼻の面を付けた伶人(れいじん、雅楽を演奏する人のこと)、素襖(すおう)を着た四十人、御幣持二人、造り稚児一人、大拍子木持三人、神輿、神輿
(か)き人五十人、御膳板持二人、神机持六人、社家騎馬と続く。
 二の宮に供奉するのは、小舟町一、二丁目、堀留町、堀江町、社家騎馬、裃を着た町人三十人、素襖を着た町人三十人、御幣持二人、造り稚児一人、大拍子木持二人、神輿、神輿舁(か)き人五十人、御膳板持三人、神机持八人。
 三の宮に供奉するのは、大伝馬町、南伝馬町、社家騎馬、素襖を着た町人三十人、御幣持二人、造り稚児一人、大拍子木持三人、神輿、神輿舁(か)き人五十人、御膳板持二人、神机持六人、社家騎馬、衆徒十騎(俗に法師武者という)、別当(四方輿に乗っている)、神主、長柄鑓その数十筋、その他諸侯方の夥(おびただ)しい警固が続く。

 夜が明けない頃より、町内から引き出した山車は、みんな山下御門を入り日比谷御門の御堀端に沿い、桜田御門前より左の霞が関方向の黒田甲州殿御屋敷の脇にある番付坂(ここに祭礼番付の札が立っている)を上り、山王御社の前から右方向の梨の木坂を下り、御堀端通りの半蔵御門(大概は半蔵御門外で昼食)より御内廓へ入り竹橋御門を出て(この内廓に将軍家の御上覧場がある)、大手前の酒井家御屋敷と小笠原家御屋敷に沿いながら常盤橋御門を出る。例年と同じ道順である。すべての練物(ねりもの)が竹橋御門を出るや、諸侯の御見物する前に招かれるのである。
 将軍家の御家人である御小人目付という役人が指揮を執り、すべての者がこの指図に従う。また御徒士目付や御使番などの御役人はみなそれぞれの掛かり場がある。指図をする町奉行は竹橋御門内御上覧場前で、炎天のなか蹲(うずくま)って祭礼が終わるまでいなければならない。
 常盤橋御門を出るや町方御役人の掛かりとなり、八丁堀の御役人、俗に旦那衆と称する町方奉行の下役与力同心の指図に従う。常盤橋御門外より出た練物が散開して各町へ退く。一番の大伝馬町の諌鼓鶏、二番の南伝馬町の猿の山車が常盤橋へ着く頃は、正午(ひる)から余ほど過ぎている。残らず出終わる頃は夜になってしまう。されば番号が末の山車は竹橋御門を出るや程なく灯火が点される。惣町の名主、役地主・家主は更に大変で、末々の身柄賎しき者に至るまで常盤橋御門を出るまでは、ひたすら神妙を旨とし失礼や不敬なことが起こらないよう行列を整えるのである。常盤橋を出るや漸く安心して一息つく。よって、この御門前にて行列を乱して、騒がしくなるのが常である。

 神輿は行列を乱さずに本町一丁目、二丁目より十軒店を右へ行き、本石町三丁目、四丁目より左へ向かい鉄砲町を回り、同町と大伝馬町の間を右へ、大伝馬町一丁目を回り同二丁目、田所町を右へ行き堀留二丁目、一丁目より左へ向かい小舟町を通り、小網町を抜けて湊橋を渡る。右へ向かうと霊岸橋、これを渡り茅場町通りから御旅所に至る。ここで奉幣を行い神饌(神に供える食事)を献ずる。そして海賊橋を渡り青物町より通一丁目へ出て大通りを尾張町まで行く、右に折れて山下町より山下御門を入り元の道筋を通り御本社へ還幸するのである。
 京都祇園会(ぎおんえ)、大坂天満祭、江戸山王祭を日本の三大祭というようだ。江戸では山王と神田を二大祭とする。当時、山車人形師で名高きは法橋(ほっきょう)原舟月(はらしゅうげつ)、法橋仲秀英。それ以前は古川徳山(ふるかわとくざん)などがある。
 赤坂氷川明神の祭礼は丑、卯、巳、未、酉、亥の隔年に行われ、六月十四日、十五日である。この祭礼も山王、神田に次ぐ大祭である。 


諌鼓(かんこ)=中国の君主が、その施政について諌言しようとする人民に打ち鳴らさせるために朝廷の門外に太鼓を設けた。諌(いさ)める鼓(つつみ)なので諌鼓と呼んだ。また
諌鼓に鶏が付いたのは、君主が善政を行ったので太鼓が鳴ることはなく、長年の間に苔むしてしまい、鶏の絶好の遊び場となった。つまり太鼓に鶏が止まっているのは、世の中が泰平であることを示す象徴という意味になる。
※大神楽(だいかぐら)=神官が獅子舞を伴い氏子の家々を回って魔除けの御祓をしたのが始まり。 江戸時代に伊勢神宮、熱田神宮から全国に広がり、熱田派の丸一家、大丸家、伊勢派の海老一家などが活躍した。
※神功皇后の鮎釣り=神功皇后が朝鮮へ出向く前に、肥前国(現在の佐賀県と長崎県の一部)の松浦川において、新羅国征討の成否を占った。自分の着物の裾(すそ)の糸と針を曲げた釣り針に餌の飯粒を付けて釣りをしたところ、とてもきれいな魚が釣れた。神功皇后はその魚に「占」「魚」の字をあて、「鮎(あゆ)」と呼んだ。そんな伝説である。