将軍薨去前後の慣行                                    江戸と座敷鷹TOP   江戸大名公卿TOP

■将軍がホッと一息ついて寛ぐ居室は、時代と共に中奥の中で変転している。概ね三期に分けることができる。境になるのは貞享元年(1684)と天保15年(1844)。
 貞享元年8月以前は「御座之間」の上段にあった。「御座之間」は一部屋ではなく、上段・納戸構・下段・二之間・三之間・大溜の6間から成っていた。
 御座之間上段で将軍は、食事を摂ったり寝所にもしていた。御座之間の三之間(相之間とも)は老中・若年寄の執務・相談部屋だったのだが、貞享元年8月に若年寄稲葉正休が大老堀田正俊をこの部屋で殺害する刃傷事件が起きた。そのため、老中・若年寄の執務・相談部屋を将軍の居室から離して、中奥と表向の境に「御用部屋」と称するものを設けた。以後「御座之間」は将軍が御三家・御三卿・老中・若年寄を謁見する部屋となり、将軍の寛ぎの居室は「御座之間」より奥の(大奥寄り)区画に設けられた「御休息之間(上下段があり共に18畳ほど)と「御小座敷(上下段とも8畳ほど)となった。
 天保15年5月までは以上の状態が続くが(途中の家宣・家継の時代に御休息之間は華美だとして廃止されているが、吉宗の時代に復活)、この月に江戸城本丸が全焼する。本丸が焼失するのはこの年だけではないのだが、将軍家慶の意向だったのであろう、これ以降はさらに奥よりの区画に「楓(かえで)之間」「鷹之間」(両間とも8畳ほどが二間)「御用之間(4畳半ほど)茶室「双飛亭(4畳半、双雀亭とも)が設けられた。
 楓之間では小姓たちと将棋・囲碁・投扇興(とうせんきょう)・投壺・挙玉(あげだま)などの遊戯をし、御用之間では一切人を近づけず判物に花押を書き朱印を捺したり、書き物をしたという。

御小座敷
この名の付く座敷は大奥にもある。中奥から大奥への出入り口である上の御錠口を入ると御鈴廊下(幅1間半)があり、この廊下沿いに御小座敷(12畳)がある。将軍が奥泊りする寝所であり、御台所・中臈と同衾する部屋である。他に御台所と若君・姫君の対面所となる御小座敷、式日などに将軍・御台所が出座して奥女中から祝詞をうける御座間御下段を御小座敷と称している。
花押
8代将軍吉宗までは花押を書いたが、それ以降は木で花押をこしらえ、将軍が墨を付けて捺した後、小姓頭取がその上を濃い墨を塗って、将軍が手で書いたように見せたという。なお御用之間には黒塗りの箪笥があり、将軍自筆の書類や、目安箱からの訴状、諸大名・寺院などへ下す判物が納まっていた。
日常
将軍の日常は朝六ツ(午前6時頃)に起床し、夜四ツ(午後10時頃)に就寝した。


■時代が下るにつれ将軍の寛ぎの居室は増えていくわけだが、寝所としたのは御休息之間上段(下段は側御用取次が老中から渡された未決の案件などの政務を執る場所として使用)で、御小座敷は食事・結髪・奥医師の診察などに使用されたという。従って、5代綱吉の時代の初期以降は、将軍の普段の寝所は御休息之間上段と断定できるが、参考資料の関係から以下に記す内容は天保15年以降のものとご承知願いたい。

 さて、将軍の毎日の健康状態は奥医師により診察された。
 奥医師と呼ばれる者は30人ほどおり、将軍を診察した。内訳は内科が22人、外科が2人、鍼(はり)科が3人、口科(歯科医)が2人、眼科が1人。毎朝この中から8〜10人ほどが御小座敷の次の間に控え、将軍の朝食が終わるのを待つ。朝食の御膳が下がると、御膳番の小納戸に2人ずつ将軍の御前に呼び出されて診察にあたった。
 内科の医師は毎朝6人ほどが診察し、他の医師は三日ごとに出たというから、ほとんど内科の診察だったといえよう。
 
 2人ずつ呼び出された医師は、平伏して御前へ進み、将軍の手を取って脈を伺う。将軍は両手を差し出す形となる。次に医師は手に取った将軍の手を、互い違いに取り直して再度脈を伺う。将軍は腕をX字形に交差した形となる。これは診察違いを避けてのことだったようだ。
 脈を診た後は舌を診る。これで2人の医師は平伏して引き下がるが、また次の2人の医師が同様の診察を繰り返し、内科医6人の診察が終わると退出した。
 腹診は医師の内の頭、御匙(おさじ 主治医)が行なったが、毎日の診察の際には腹診はなかった。腹診の仕方は、将軍の袖口から手を入れて襦袢の上から触診した。

 この診察が終わる頃に、将軍の髪が結い上がったという。将軍は朝食(一汁二菜で質素だった)を摂りながら髪を結うのが慣例だった。御髪番(おぐしばん)という者がいた。小姓4人、小納戸2人ほどが御髪番となって、食事中の将軍の髪を大銀杏(おおいちょう)に結い、顔と月代(さかやき)を剃ったのである。何事も慣れとはいえ、朝食を味わう余裕など将軍にはなかったのではなかろうか。味わうといえば、将軍の飯は米を笊(ザル)に入れて、これを沸騰している湯の中に漬け、さらにこの煮上がったものを釜に移して蒸したという。なんとも不味そうな蒸飯である。これだと味わう必要もなかったと思われる。
 また、将軍の体の加減が少しでも悪い時は、将軍が食べたこの飯の量を測ったという。

寝具
江戸時代の蒲団は敷蒲団のことを指した。現代のような長方形の掛け蒲団は、将軍はもとより武家・庶民ともになかった。上に掛けるのは掻巻(かいまき)といって袖の付いた夜着だった。将軍の掻巻は花色(露草の色)縮緬ないしは羽二重で御召茶という裏が付いていた。綿300匁入り・500匁入り・700匁入りの三様があり季節により使い分けた。
 蒲団の下には揚畳(あげたたみ)と称するパンヤ(カポックのことで、アジアの熱帯地方に産するパンヤの木の種子に生える綿状の長軟毛)を入れたフワフワしたものを敷いた。枕は錦の括枕(くくりまくら、中身は分明ではないが、パンヤだったと思われる)で括った左右の端に朱色の房が垂れていた。
 寝所内には火事装束を掛け、床の側に刀掛があり、枕元の長押(なげし)には夢を喰う霊獣・獏の絵が掛けてあった。小姓2人が枕なしの蒲団・掻巻で添寝したという。


■将軍が重病になると御小座敷で奥女中の看病を受けるが、病状が軽い場合はいつもの御休息之間上段を寝所とした。
 将軍の居室がある中奥と大奥の間は銅塀と杉戸錠口があり、中奥の男の役人と御台所以下奥女中の境界となっていたが、看病や御見舞いのために御台所や奥女中が御小座敷・御休息之間へ出る際は、中奥の役人すべてを退けさせ、杉戸に錠を下ろした上で御台所・奥女中が中奥へ出て来た。
 将軍の病状が重病からさらに進むと、奥女中の手の力では及ばなくなるため看病の奥女中を大奥へ退け、すべての奥医師が詰め切り、老中・若年寄・側御用取次は泊まり番を始め、男の手で看病したという。

異説
重病の際の寝所を中奥の御小座敷ではなく、大奥の御小座敷とする説がある。大奥の御小座敷で奥女中らの看病を受け、さらに病が進んだ時に中奥から老中らが大奥に入り、この時に奥女中をことごとく払って男手による看病を始めるというのである。


 将軍薨去の際は老中・若年寄・側御用取次は傍らにいて遺言を聞くのだが、そうはいかない場合が多かったようだ。将軍が遺言を残せるだけの余力があるのは奥女中の看病段階で、男の手に看病が移る段階では意識は朦朧状態だったと思われる。そんなところから、御台所や奥女中が将軍の遺言だとして、表の権力と結び付く場合もあったはずだ。
 ともあれ、奥医師の頭である御匙が「御事断れ」(おこときれ)と申し立てると、老中らは遺骸を拝すことになる。
 将軍の薨去を知る者は老中・若年寄・側御用取次・側衆・小姓・小納戸・三奉行(町・勘定・寺社)・目付・奥医師・奥女中のみで、その他の者には厳重に秘密とした(葬式に関係する者は例外)。秘密の期間は30日ほどだった。
 この期間は葬式の準備と御宝塔(墓所)の築造にかかったもので、30日後に将軍薨去を発表するのが歴代の慣例だった。

■老中は将軍薨去後すぐに小普請奉行(将軍家の菩提寺は二つあった。小普請奉行は上野寛永寺の担当)か、作事奉行(芝増上寺の担当)を呼び、将軍薨去を告げて墓所の普請に取り掛からせ、「御肌付」(おはだつき)と称する棺も作らせる。また棺に朱を詰めることから、朱が不足しないよう朱座に対して、朱の売買を禁止する旨を達する。
 
 薨去が発表される3、4日前に「御不予(病気)につき御気嫌伺」というものがあった。御三家以下在府の大名が総登城し、老中に会って口上を述べるのである。薨去発表の日は再び御三家以下在府大名が総登城し、老中が列座して「公方様が御不例、養生叶わせられず、○○刻(時間)薨去遊ばせされ候」と演達して即日鳴物停止(なりものちょうじ)が触れ出される。
 鳴物停止は御三家や老中の死去の際には、初めから期限を三日、七日と決めて触れ出されるが、将軍の薨去の際の鳴物停止は期限を決めずに、停止が追って解かれるまで鳴物停止となった。
 御三家や譜代大名、諸番頭らには月代を3721日間、外様大名は2714日間剃ってはならない旨が達せられた。月代を剃らないことが喪に服すことだったとは、何か見苦しい感じがあるが意味のあることだったのであろう。
 家光の時代までは殉死の慣行があったが、寛文3年(1663)に禁止されるようになった。御主君第一から御家第一へ移行したわけで、これを体現したのが知恵伊豆で知られる松平伊豆守信綱であったろう。彼は堀田正盛や阿部重次が殉死する中、生きて幼君家綱を守り立て将軍家へ仕えたのであった。
 殉死は幕府が禁止する前の寛文元年に水戸の徳川頼房、会津の保科正之が藩内で禁止している。

 殉死の代わりに慣行となったのが、「薙髪」(ちはつ)だった。当初は自発的に行なわれていたが、小姓頭取4人・小納戸頭取2人が薙髪する決まりとなった。将軍薨去後ただちに頭髪の結び目から切り捨て、送葬の際は無紋水色の長裃を着て棺の左右に従ったという。
 送葬の儀式が終了すると、薙髪した6人には手当金100両、遺物金から100〜150両が与えられ、遺物や器物が給付された。奥女中には多くの道具類が与えられ、御三家・諸大名にも遺物が給付されることがあったという。
 奥女中の内で御手付きの中臈は髪を切り法号を名乗り、二の丸や桜田御用屋敷などの比丘尼屋敷に移住し、念仏三昧の生活を送ることになる。御年寄の中にも将軍薨去後に比丘尼となる者がおり、勤続30年以上の者には終身年金が与えられた。幕末も嘉永7年(1854)になると財政難から勤続40年以上でないと支給されなくなった。13年後に大政奉還となるが、この年に勤続40年に達した者は愕然としたであろう。



※参考資料 「第五江戸時代漫筆」(石井良助著 明石書店) 「江戸城をよむ」(深井雅海著 原書房) 「江戸の二十四時間」(林美一著 河出書房新社) 「江戸城」(村井益男著 中公新書)など