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朝廷内部の確執ー霊元法皇と近衛基熈
 
江戸時代の朝廷は一枚岩だったように思われがちだが、近年公卿の日記の翻刻などが進むにつれ、朝廷内部に確執の存在したことが知られるようになった。なかでも、久保貴子氏が著わした「近世の朝廷運営」(岩田書院)には、霊元法皇と近衛基熈の長年にわたる確執が記されており、数少ない貴重な資料となっている。

 霊元法皇と近衛基熈は極めて近しい縁戚関係にあった。霊元法皇の父後水尾法皇の生母は近衛前子(中和門院)であり、後水尾の同母弟の近衛信尋は近衛基熈の祖父にあたる。後水尾と園基子(新広義門院)の間に生まれたのが霊元法皇で、霊元の同母姉の常子内親王は近衛基熈の正室となっている。後水尾と徳川和子(東福門院)の間に生まれた昭子内親王(明正天皇の実妹)は近衛基熈の父尚嗣の正室となっており、基熈には嫡母にあたる。
 早い話が霊元と基熈は義兄弟で、
霊元は承応3年(1654)に生まれ、基熈は慶安元年(1648)に生まれているから、基熈が6歳年長となる。

 通常なら霊元にとって基熈は年齢差からみても、良い相談相手になるはずだったが、父の後水尾法皇に可愛がられる基熈に霊元が嫉妬したのが事の始まりのようで、それに加えて、霊元の近習となった公卿らの朝幕関係の現実認識の甘さが、両者の確執を一層広げたものと思われる。

後水尾法皇の「掟」条目制定
 霊元法皇が天皇に即位するのは寛文3年(1663)、異母兄の後西天皇の譲位により即位、当時10歳であった。朝廷の権力者は後水尾だったが、霊元の成長に応じて政務を徐々に霊元へ移そうと考え、寛文11年頃から実際に政務の一部を移しつつあった。
 しかし、後水尾は霊元の官位叙任の仕方や若い近習らと花見酒を催し泥酔するなど霊元の行動に不安を抱いていた。そこで後水尾は霊元の近習衆を対象とする掟条目を制定する。
 掟条目制定にあたっては、霊元の意見、武家伝奏中院通茂の意見、当時右大臣だった近衛基熈の意見が加味され、幕府の許可を得て施行された。
 当時の関白は鷹司房輔だが、関白を差し置いて当時24歳の右大臣基熈が掟条目制定に関与できたのは、基熈が後水尾と近しい縁戚関係にあったことの他に、基熈の幼少時に父尚嗣と嫡母昭子内親王が病没したため、6歳で基熈が近衛家当主となった際に後水尾が後見役となり、基熈の成長を間近に後見してきた後水尾に信頼されていたものと思われる。

小倉事件
 
延宝5年(1677)、霊元の生母新広義門院が亡くなり、翌年嫡母東福門院も亡くなる。延宝8年(1680)には朝廷内の権力者後水尾法皇が崩御する。
 当時の霊元天皇の皇子は4人いた。小倉実起の娘を生母とする一宮(延宝6年当時8歳)、愛宕通福の娘を生母とする二宮(同7歳)、中御門宗条の娘を生母とする五宮(同4歳)、五条為庸の娘を生母とする六宮(同3歳)。
 しかし、当時すでに一宮が儲君(皇太子)として内定していた。ところが、新広義門院、東福門院、後水尾と相次いで亡くなる頃から、霊元とその周辺が五宮の儲君擁立の動きに出てくるのである。
 この動きを画策したのは中御門宗条の従兄弟で当時武家伝奏の花山院定誠とされる。霊元の寵愛が一宮の生母から五宮の生母へ移ったことを知った花山院は、霊元へ五宮儲君を勧め、まず二宮を仁和寺門跡の付弟(後継の弟子)に定め、次に一宮を大覚寺門跡の付弟にしようとした。が、後水尾の皇子で大覚寺門跡の大覚寺宮性真法親王に反対される。これをなんとか説き伏せ、延宝9年4月幕府からの承諾も得るが、一宮の外祖父小倉実起は従おうとしなかった。
 一宮の生母中納言典侍は一宮出生前後に、極めて嫉妬深い性向から実家へ戻されており、一宮は生母の実家小倉邸で養育されていた。
 そこで霊元側は一宮を小倉邸から連れ出すため、使者の他に多数の警護の武士を送り込み、強引に一宮を飛鳥井雅豊の屋敷へ移してしまう。
 小倉実起・公連・熈季の父子3人は蟄居を命じられ、天和元年(延宝9年9月29日から天和元年)10月23日幕府によって小倉実起父子3人は佐渡へ遠流、実起の兄にあたる高倉嗣孝父子、実起の弟にあたる中園季定父子は逼塞を命じられた。
 天和2年3月25日、五宮(後の東山天皇)の儲君が幕府に了承され、儲君の外祖父中御門宗条及び池尻共孝など中御門家と姻戚関係にある公卿らが儲君へ仕えるよう参内を命じられた。 

一条兼輝の越官
 
小倉事件の後、五宮が儲君に定まる前にあたる天和2年(1682)2月19日、左大臣近衛基熈へ霊元の使者として議奏勧修寺経慶・三条実通・甘露寺方長の3人が訪れ、幕府から今度の関白を右大臣一条兼輝にするよう指示があった、朝廷としては幕府へ再考を要請したいが、現在の朝廷の力では無理だと、基熈へ伝え、基熈へ意見を求めた。
 これに対し基熈は、朝廷が第一であり自分の身についてあれこれ申すべきことはないと答え、左大臣の官職を辞するべきかどうかについて霊元の意思に任せた。左大臣については同日の内に辞すに及ばずとの霊元の返事があった。
 人事の慣行は、右大臣→左大臣→関白、であり、左大臣を飛ばして右大臣→関白は異例であった。
 従って同日に議奏今出川公規・葉室頼孝・勧修寺経慶に訪問された一条兼輝は、この人事を了承しなかった。その後も固辞したため、霊元は前関白鷹司房輔に一条兼輝の説得を命じる。
 この時に霊元は、関白の件は昨年の内に当時の京都所司代戸田忠昌から沙汰があったと伝え、この沙汰を直接聞いたのは花山院定誠だったと付け加えた。
 鷹司房輔は一条兼輝を説得することに承知したが、花山院に対して、なぜその折に越官のないよう所司代に申し入れなかったのかと問い質した。花山院は、自分は天皇の御使いとして出向いたに過ぎず、そのようなことはできなかったと返答した。
 一条兼輝は相変わらず固辞するが、霊元が強引に兼輝の関白宣下を押し進め、兼輝も遂に了承するに到る。

 摂家筆頭の近衛家当主として屈辱を味わった近衛基熈は、この異例の人事を霊元周辺の策動だとして、武家伝奏花山院定誠・千種有能や霊元の近習難波宗量の動きに疑惑を深めている。

譲位の本意
 
天和2年12月2日、五宮の親王宣下(朝仁親王)が行われ、翌年2月9日、南北朝期以降途絶えていた立太子礼が復活し、朝仁親王の立太子礼が行われた。
 貞享元年(1684)2月23日、霊元は天皇位を譲位したいとの内意を摂家衆に伝える。在位が22年の長期に及び、朝仁親王が霊元自身の即位した10歳になったというのが譲位の主な理由だった。
 幕府は今回の譲位を時期尚早としたが、貞享3年3月に翌年4月に朝仁親王の天皇即位を行うことを承諾する。
 霊元の天皇位譲位の本意が露になるのは、大嘗会(だいじょうえ)再興を幕府と半年余り交渉して、簡略ながらも遂に反対する幕府を説き伏せたことからである。
 久保貴子氏の研究によれば、霊元にとって朝廷の再興とは儀式典礼の再興を意味し、大嘗会は天皇の交替に重みを持たせる儀式であることから、これを自分の譲位に連動させ、自分の手で再興することで朝廷内における威信を高め、「院政」を実現させようとの企図があったとしている。
 しかし、近衛基熈は公家衆に下げ渡す米の支給を減らしてやっと経費の捻出ができる大嘗会は、再興する必要はないとしている。
 幕府は大嘗会再興に見せた霊元の執着に警戒し、以下の内容の老中奉書を京都所司代へ送り朝廷へ指示させた。
(1)花山院定誠を東宮(朝仁親王=東山天皇)から引き離し、朝廷運営
  は関白、武家伝奏、議奏らが相談して行うこと
(2)譲位後の霊元が東宮に口出しすることのないよう関白、武家伝奏
  から申し入れること
(3)東宮は幼年でもあり、女中方を差し出さないこと

近衛基熈の関白就任
 
貞享4年(1687)3月、霊元譲位・東山天皇の践祚(せんそ、天皇位継承)にともない関白一条兼輝は摂政に就く。貞享5年(この年の9月30日から元禄元年)2月19日、一条兼輝が摂政辞任を霊元に申し入れる。霊元は兼輝にあと一両年務めるよう慰留。
 元禄元年(1688)10月26日、近衛基熈は霊元に左大臣辞任を申し入れる。これに対し霊元は、近衛家に病気でもないのに左大臣を辞任した前例はない、短期間でも関白を務めるべきであろうとの返答。基熈が辞任を申し入れた狙いは、霊元に次期関白が自分になるよう確約させたかったからといわれる。
 元禄2年3月27日、一条兼輝は摂政から関白に転じるが、同年10月2日関白辞任を霊元へ申し入れる。理由は関白→摂政→関白と歴任した例が摂家が五家に分かれて以降ないこと、そして病気を挙げている。霊元は兼輝の関白辞任は現状況では仕方ないとしながらも、次期関白の近衛基熈の在任期間は短くなろうから、兼輝はその後に再び関白に就任すればよいと返答している。
 元禄3年1月13日、近衛基熈が関白に就任する。これには幕府の後押しがあったといわれる。

霊元の政務移譲
 
元禄3年10月11日、霊元が西本願寺に対して先例を覆し、参内する時は四足門透垣の外で下轅・乗轅するよう命じた。霊元が先例を覆すことを命じたのは、議奏の勧修寺経慶が霊元や東山天皇の生母(中御門宗条の娘宗子、後の敬法門院)、外祖母(中御門宗条の正室秀子)などに取り入って発言したことに起因するらしいが、詳細は分明ではない。
 霊元の意向は京都所司代内藤重頼に報告され、内藤は先例を改変しようとすることに不快を示し、先例を重視する関白近衛基熈は霊元と対面し、以前の状態に復したほうがよいと進言する。霊元は当初基熈の進言を受け入れたが、数日にして一転する。
 これに対し近衛基熈は、西本願寺が幕府へ訴訟する意向であり、これには東本願寺も同意であり、本願寺の門徒衆が関白、武家伝奏の屋敷門前に数百人が詰め掛けるとの噂のあること、また、京都所司代も幕府への訴訟にまで発展しては、朝廷のためによくないと考えていることを書付に纏める。この書付を読んだ霊元は元禄4年5月16日、渋々と以前の状態に復すことを了承するのだった。
 西本願寺の件がまだ落着しない元禄4年4月14日、霊元が天皇に政務移譲をする院宣が近衛基熈に伝えられる。天皇譲位後は東山天皇に口出ししないことを幕府に約束した霊元だが、実際は霊元が朝廷を諸事運営しており、武家伝奏らは不実行を幕府に咎められ困惑していた。そこへ霊元の政務移譲である。基熈と武家伝奏らは、霊元の真意を計りかね、気力衰弱かと推測した。
 ところが、翌日になると霊元は関白、武家伝奏、議奏に対し、「武士」と計り「朝家」を軽んじ忘れることなく「朝家之御為」に尽くすと記した誓紙血判の提出を求めたのである。関白、武家伝奏、議奏がほぼ同文の誓紙に各々が血判することは異例であった。関白にとっては先例のないことだった。
 元禄6年(1693)9月12日、再び霊元が政務移譲の意向を近衛基熈に伝えてきた。東山天皇が19歳となっていた。同年11月に政務移譲を行い、基熈は武家伝奏を通して京都所司代に伝え終わると、日記(「基熈公記」元禄6年11月28日の条)に「心中歓喜々々」と記したのだった。

特異な地位を築く基熈
 霊元の政務移譲後は東山天皇の成長と相まって、霊元の影響力は後退していった。ただ、東山天皇の生母(中御門宗条の娘宗子、後の敬法門院)、外祖母(中御門宗条の正室秀子)の朝政への干渉は政務移譲後もあったが、不行跡の多い議奏勧修寺経慶や霊元の推薦で議奏となった清水谷実業、東山天皇の生母による推薦で議奏となった中御門資熈らを、京都所司代と相談しながら基熈は辞任に追い込んでいった。これにより基熈は東山天皇から信頼されるようになっていった。
 関白を基熈は元禄16年(1703)1月14日まで務めるが、元禄3年1月13日に就任して以来この間4度辞任を申し入れている。3度はいずれも健康上の問題だったが東山天皇に留保され、4度目でやっと辞任を許されたのであった。
 宝永元年(1704)12月5日、基熈の娘熈子が嫁している甲府中納言徳川綱豊(4日後に家宣と改名)が5代将軍綱吉の養嗣子に決まり、江戸城西丸に入った。この通知を基熈が熈子から受け取るのは同月9日。幕府からの正式な通知は同月10日の夜に京都所司代に届き、翌11日所司代松平信庸が披露し、数日間にわたり近衛邸に賀儀を述べる人々が行列をなした。その後も
熈子は幕府の動向を事前に基熈のもとへ通知してくるようになり、基熈は幕府の政策などをいち早く知りうる立場になった。
 隠居の身で身軽だった基熈は、東山天皇から相談された継体(皇位継承)問題を携えて、宝永3年2月18日京を発ち江戸へ下向する。この時は短期間で同年3月23日に江戸を発ち京へ向かい4月9日に帰京している。
 継体問題とは、東山天皇は皇子長宮(ますのみや、生母は櫛笥隆賀の娘)を儲君にしたいのだが、長幼の順に従うと三宮が儲君第一候補となる。三宮(生母は冷泉為経の娘)を儲君にしたくないのは、東山天皇の同母弟京極宮文仁親王の子ではないかとの巷説があったため。
 継体問題について根回しをして帰京した基熈は、翌宝永4年2月16日に幕府から長宮(後に慶仁親王=中御門天皇)の儲君を了承した旨の連絡を受け取る。

 宝永6年5月1日徳川家宣の将軍宣下が行われ、同年6月21日東山天皇の譲位、中御門天皇の践祚が行われた。
 同年10月25日、近衛基熈は長年断絶(豊臣秀吉以来)していた太政大臣に就任する。東山上皇が基熈の活動に報いたのである。が、基熈は健康上の理由もあって同年12月8日に辞した。
 ところがその9日後、東山上皇が疱瘡で崩御してしまう。基熈の衝撃は烈しかったが、幕府から江戸下向を求められ、翌宝永7年4月に下向する。帰京は2年後の正徳2年(1712)4月であった。これ以降のことは、「江戸期最大のスキャンダル」と共にこちらのページを参照して頂きたい。

 最後になったが、霊元法皇と近衛基熈の朝廷運営の考え方の違いについて纏めると、霊元は天皇家の長による親政を理想とし、基熈は天皇の意向を受けつつ関白ら臣下の合議制で行うのを基本としていたようである。しかし、霊元は親政を目指したというより、我意を通した単に我儘な天皇・上皇・法皇であったように思われる。それは新井白石によって新宮家の創立がなったことに対して、同じように新宮家創立を構想していた霊元が反対したことや、基熈が朝廷・公家の伝統文化や生活の保全を願い公武間の婚姻に反対であったのに、霊元は徳川家継と八十宮(やそのみや)の婚約を許したことに露見している。
 新宮家創立は朝廷にとって利であるが、霊元にとっては基熈の手柄になることから反対している。皇女八十宮の降嫁は、霊元にとっては基熈に対して攻勢に転じられる好機と考えたのであろう。
 近衛基熈は政治面では幕府と共存共栄、協調の道を選択したが、文化・生活面では認めがたいものだったようで、熈子と徳川綱豊の縁組や孫の家久と薩摩藩島津綱貴の娘との縁組は時勢に屈したもので、基熈には慶事ではなかったといわれている。
 偉人、凡人を問わず、人間には「ここまでは許すが、ここからは譲れない一線」というものがあるはずである。この一線が状況によってコロコロ変わることは凡人ならあるかもしれない。だが、集団のリーダーにはあってはならないことだと思うのである。