慶安御触書                                                                                          江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

慶安の御触書について
 江戸幕府の農政を知るには、下記枠内の文(徳川実紀)を紹介するのが最も適していると思い掲載した。
 「徳川実紀」は家康から10代将軍家治までの編年記。大学頭・林述斎の指導下に文化6年(1809)に起稿され、天保14年(1843)に完成している。
 「徳川実紀」が実録かどうかは、例えば下記枠内文の最後に「日記、條令拾遺」とあり、「條令拾遺」と言う史料を引用典拠して解説記述した
ことが判り、史料としての質の高低によって左右されるところ大と思われる。
 下記枠内文はいわゆる「慶安御触書」(32ヵ条)と直接関係しており、歴史学の世界では起首にあるように慶安2年2月26日に法令が実際に発布されたのかどうかについて論争があり、問題の記述とされている。
 ともあれ、さっと一読していただき、後にその辺りのことをまとめておいたのでご覧願いたい。
 ※なお、旧漢字、句読点は改め、新たに段落をつけ、内容により一行あけて読みやすくしたつもりだ。

郷邑法度(百姓心懸)
 
慶安2年(1649)2月26日
 この日
※1郷邑に令せられしは、官の法律を守り※2地頭・代官をおろそかにおもはず※3里正・組頭をば親のごとくにしたしむべし。
 里正・組頭は地頭・代官を敬重し、貢米渋滞せず。官令に背かず
※4小民等身の行ひ正しからんやう教ゆべし。
 里正・組頭の行状正しからざれば、小民を官事につかふ事あるとき、心に服せざればしたがはざるものなり。まづをのが行ひを正しくして、不便の事なからんやう心がくべし。また里正等をのが心にかなはざるものにも非義をいはず
※5私愛の者にも依怙の沙汰せず。よく小民を哀憐し、貢賦の課に多寡なからんやうはからふべし。
 
 小民は里正・組頭の申付を背くべからず
※6稼穡に心入て草をとり、時々鍬いるるときは、稲も長じやすく実も多かるべし。はた田畝のさかひに大小豆をうへて、生業の助とすべし。
 朝は
※7とくおきて※8耨り、昼は田圃をたがやし、晩は縄をなひ※9苞を綴り、何にても其わざに怠惰すべからず。酒茶を買飲べからず。
 邑里の家居は
※10墻の内外に竹木をうへ、下枝をとりて薪とすべし。萬の種子は秋初によき実を撰び収むべし。あしき種をまくときは、 熟よろしからざれば其心すべし。
 年々正月11日前に鍬の刃を磨し、鎌をもうち直すべし。器械よからざれば耕耨はかどるべからず。農家は糞灰を蓄ふる事専要なれば、厠をひろく作り、雨水いらざるやうにすべし。匹夫匹婦の小民は馬蓄ふ事もならず。糞の貯もならざるものは、庭に三尺に二間ほどの穴をうがち、そのうちに塵芥を掃、道の芝草をけづり入、あるはせせなぎの水をながしいれ、つくり肥をして田圃を養ふべし。
 農民は志慮うすく後の事を思はず。秋にいたり
※11八木雑穀を妄りに妻子に喫せしむ。いつも正二三月の心をもちて、食物を大切にすべし。
 雑穀専一なれば、麦・粟・稗・菜・大根、その外何にても雑穀をつくり、米を費さざるやうにすべし。饉餓の時をおもはば、たとひ大小豆・角豆の葉・芋の茎葉たり共、いたづらに棄るは無益の事とおもふべし。其身をはじめ子弟・奴婢にいたるまで、常はなるだけ
※12麁飯を喫すべし。
 されど田圃を耕し稲をうへまた刈収め、一しほ骨折時は、食物を宜しく多く喫せしむべし。かくすれば稼穡に励精するものなり。何とかして牛馬のよきを持べし。よき牛馬ほど肥をよく踏なり。春中牛馬に飼ものは秋より貯ふべし。また田圃其外肥多くするときは、収穫をのづから多きものなり。
 男は農業をはげみ、婦は機織に心いれ、夜までも夫妻とも家業をつとむべし。たとひ美なる妻ならんにも、夫ををろそかにし、飲食遊興に超過する者は去べし。
 されど子をあまた生み、あるは前に夫に功労ある妻は各別たるべし。また醜婦たりとも、家道大切にせば去べからず。
 
 官の法度の中にも、わけて出所明かならざる処士は、郷中に住居せしめず。盗賊の党与はさらなり。官令に背く凶徒等を隠し置、他よりうたふる者ありて庁にめされ査検のうち。ながく滞留せば郷村の疲労になるべし。また里正をはじめ富民等、一郷の者どもに忌れざるやう、事々正直にわたり
※13邪僻の心を持べからず。
 
 農民衣服に布、木綿より外着すべからず。
 
 少しは商の心をもて家計の助とすべし。そは貢賦のために雑穀をうりひさぎ、或は買もとめんにも、商の心得なからん時は、人に欺かるるものなり。家とめる者は此限りにあらず。田圃多くもたず、貧しからんもの子多くば人にあたへ、又は人の奴婢たらしめ、年中の口腹養ふべきはからひすべし。
 
 宅地の庭を南向にして
※14洒掃をよくすべし。こは稲麦をこき、大豆をうち、あるは雑穀をこなすとき、庭あしければ土砂交入て、売ときにいたり価いやしくなり費多かるべし。
 農業に精しき人にとひきき、その田圃に相応せる種を蒔べきやう年々心がくべし。卑湿に作りてよきもあり。またあしきもあるべければ、よく其利害を考るときは、下田も上田となるべし。その他によるべけれども、麦田になるべき所は、少したりとも見たて、麦田とするときは、民のため大なる益なるべし。一郷麦田を設くれば、隣郷もをのづから習ふものなり。
 
 春秋は身に灸して、疾病に冒されざるやう心がくべし。いかに業を励まんとするとも、病に係らば稼 
穡を廃し、家道頽壊するものなれば、妻子等までも其こころせしむべし。
 煙草を喫む事を禁ず。こは食にもならず中々病となるものなり。そのうへ事の隙をかき価直を費し、火のいましめにもかかはり、万事に益なきものなり。
 
 貢米出す時、田畝の数によりては、一反に何ほど、惣額によらば一石に何程と定めて、地頭・代官より差紙を出す。しかる時は耕業に心いれ、年穀多くは其身の利潤となり。あしければ人しらず、をのが産の損失となるべし。租税皆済の時に及び、升斗の米たらずして郷中を借れども、皆済のときは互に米乏しくかさざれば、升斗のために、子ども又は牛馬もうられず。止を得ずして農具・衣服等をうらんとおもへば、金壱分にて買し物を、わづか五六升の米にかへうるもいと益なき事なり。
 また衣服・調度うるべきものなき時は、高利を出して米を借るも、いよいよ費なる事なり。地頭・代官より
※15割附を出さば、兼て不足ならんには※16前びろにかり得て済すべし。前にからば利足も軽く、売者も思ふごとくうらるべし。
 尤賦税は速に納むべし。家につみ置ば鼠もはみ、盗火その外万につけ、大なる損失あるべし。
 籾をばよく干して米に摺べし。よくほさざれば砕て費なり。よくよく心得べし。身を怠惰してその年の貢米たらず。たとへば米二俵かり得て貢賦に出し、其利息年ごとに積ば、五年に至て本利の米十五俵となる。其ときは生産を敗りて妻子を売、をのが身をもうりて、子孫とも永く苦しむ事なり。この事よくおもひはかりて、所業をつとむべし。前に米二俵の時は少しき事と思へど、年々の利息累積せば、かくのごとくなりゆくべし。
 さてまた米二俵もとめおけばその利を加へ、十年ふれば百十七俵貯ふるにいたる。民産の利害ここをもておしはかるべし。
 
 山かたは山のなりはひし、浦方は漁猟して、それぞれに業をつとめ、怠らずかせぐべし。
 風雨また病患故障もあれば、かせぎて設けし品を猥りに費すべからず。山方・浦方には人居多ければ、はからぬかせぎも出来るものなり。山にては薪を採り、杣木をきり、木果を売買し、浦にては塩を焼、漁りしてあきなふゆへ、いつも業ありとおもひ、後のはからひもせず、得るほどの貲を日ごとに費すゆへ、餓饉の年は邑里の民よりこと更餓死するもの多しと聞ゆ。されば常に凶年の艱苦を怠
(忘)るべからず。
 
 
※17孤独の民病にふし、あるはさはる事ありて稼穡を廃するときは、同邑の者助けあひ、其田圃荒蕪せざるやうはからふべし。また孤独の民田を耕し、苗とりて、あす植んとする時に、地頭・代官又は官役につかはれ数日を歴れば、とりし苗はかれ、その外の苗もふし立て植る期を過すゆへ、其年の秋成あしくして民力疲憊に及ぶ。田植る時にかぎらず、畑も植る時蒔ときを失へばあしし。
 里正・組頭その心して、かかるをり孤独の民
※18徭役にさされば、奴僕持し民とさしかへ、孤独の者をば助けやるべし。
 
※19匹夫匹婦の民生産ともしく、郷中のもの常々※20いやしめらるるといへども、よく業をはげみ、米穀貲財を多くもたば、里正ならびに郷中の長をはじめよく接遇し、末座のものも上座にのぼせ馳走するものなり。
 また前には家富し者も貧しくなり、親戚をはじめ里正・組頭までも、いやしむるものなれば、なるたけ業をはげみ、身の行ひを慎むべし。
 
 一邑のうちにて稼穡に心いれ、行ひをつつしみ、家富るもの一人あれば、そをまねびて郷中みなよくつとむるものなり。一郷にさる村あれば、一郡みなはげみ、一郡にさる村あれば、一国みな習ふて豊になるものなり。隣国までも其風をのぞむものなり。
 地頭は
※21転更する事ありといへども、農民は替る事なく、永く其地の田畝をもて便とするものなれば、よく身をつつしみ家産を富さば、農家の大なる利にならずや。
 
 且郷中に無頼の徒一人あれば、郷中みな風俗にうつされ、絶ず
※22諍論に及び、官の法律を犯せば、その徒を奉行所にめしつれ来るとき、このことあつかふ者の労苦はさらなり。一郷の費へ大なるべし。すべて事おこらざるやういづれも心入れべし。此事里正たる者の心にあれば、よく小民を※23暁諭すべし。はた隣邦とむつびあひ、他領のものとも諍論・訟訴などすべからず。
 
 父母に孝心深かるべし、孝の第一は其身疾病なからんやう養生し、飲酒に耽らず人と諍闘せず、身の行ひをよくし、兄を敬ひ弟をあはれみ、兄弟の中親睦なれば、父母の心ことに悦ぶものなり。此旨を守らば人倫の道にかなひ、神仏の擁護ありて、年穀熟してとりみも多かるべし。何ほど父母に孝養せんと思ふとも、貧乏にてはつかへがたければ、なるべきほど身を慎むべし。
 生産たらず貧窮に苦しむ時は病を発し、又心も邪になりて
※24盗偸をなし、官法を犯し繋獄せられ、獄屋にいり重刑に処せられるる時は、父母はいく程か悲歎せざらん。其上妻子・兄弟・親戚等になげきをかけ、恥辱をとる事なれば、よくよく身をつつしみ、家貧しからざらんやう※25旦暮に心がくべし。
 
 かく示せし如く、事々に心入て農をつとむべし。米・金・雑穀も貯ふる時は、屋舎・衣服・食物にいたるまで心のままなるべし。穀財あまた貯ふるとて、故なく地頭・代官より取あぐる事もなく、泰平の御代なれば他より掠る者もなし。然る時は子孫安く富み、餓饉の年にあふといふとも、妻子・奴婢の養育もとどくべし。
 貢米さへ納むれば、農民ほど安穏なるものはあらじ。よくよくこれらの旨を心得て、子孫を教訓し、家業をはげむべしとなり。(日記
※26條令拾遺)

引用文献
「新訂増補国史大系徳川実紀第3篇」(吉川弘文館 1930年9月刊)

印の語説明
1郷邑=農村 2地頭・代官=幕府旗本、幕領代官 
3里正・組頭=名主・組頭。年貢・夫役は村として請けるので、名主(地域によっては庄屋、肝煎)はそれを村の百姓たちに割り振りする村の代表責任者、組頭(地域によっては長百姓、年寄)は名主の補佐役。「村方三役」と言う場合はこれに百姓代が加わる。百姓代の役目は平百姓たちの代表として名主・組頭を監視することにある。
4小民=小農民=夫婦子供の単婚小家族=平百姓 5私愛=利己的な 6稼穡=読みはカショク、耕作の意 7とく=疾く、早くの意 8耨り=スり、除草するの意 9苞=俵の意 10墻=読みはショウ、土塀の意 11八木=読みはハチボク、ここでは松・柏・桑などではなく米の意。米の字を分解すると八と木になる。 12麁飯を喫す=粗末なメシを喰わせる 13邪僻=ひねくれた 14洒掃=読みはサイソウ、水をまき洗い清める 15割附=年貢の繰り延べ 16前びろ=前もって 17孤独の民=働き手が一人しかいない家 18徭役=読みはヨウエキ、夫役のことで知行主から強請される人足労働
19匹夫匹婦=小作人 20いやしめらるる=軽く扱われる 21転更=転任 22諍論=言い争う 
23暁諭=教えさとす 24盗偸=泥棒 25旦暮=朝夕
26條令拾遺=法令集、この中に「百姓身持之覚書」が収録されている。「百姓身持之覚書」は後年に「慶安御触書」と呼ばれるようになる。

■慶安御触書は偽書か ?
 近世史家の丸山雍成氏は次のように述べている。

「近世前期の幕府法令や日記等に【慶安御触書】の存在を確認できず、また諸藩や旗本の諸法令のなかの一部に類似の条項があっても、それは近世後期に作成された所謂【慶安御触書】に影響をあたえた可能性を想定すべきであること、そして所謂【慶安御触書】の原題名【百姓身持之覚書】の原型とみられる天明二年【百姓身持書】が現在のところ確かな史料としては上限をなし、次が金井圓氏紹介の所謂寛政年中の【(慶安)御触書写】、さらに文化十三年の秋月藩【定】、文政十三年の岩村藩刊の所謂【慶安御触書】(版本)以下がつづくが、慶安二年より天明二年まで百三十数年間は史料的にまったく空白だったこと、による」(「近世日本の社会と流通」雄山閣 93年11月刊)

 と、言うことである。「條令拾遺」収録の「百姓身持之覚書」が慶安2年2月26日に著されたものなら問題はなかったが、幕府編纂の法令集「御触書寛保集成」(寛保期1741-1743)にも掲載されておらず、「條令拾遺」自体が林述斎によって文政13年(1830)前後に編まれたとする研究者もいるのである。
 では、なぜ徳川実紀の慶安2年2月26日の条項に記述されたのか。これについて丸山氏の解説は以下である。

「慶安二年二月、町人に対し衣類・振舞・家具・家作・祝言その他について奢侈禁止令を出し、三月には諸大名・旗本に対して倹約を令して奢侈を戒めたのに較べ、二、三月前後に百姓に対する幕府法令がみられず空白であることが、その解決のいとぐちとなる。おそらく後年、幕府の農政その他に知悉した御用学者か地方巧者(※じかたこうしゃ、農村復興・再生の専門家)が、先の天明二年正月の【百姓身持書】を修補し、年号も慶安二年と改めて、これが【條令拾遺】に収められたのであろう【慶安御触書】との表題が(※條令拾遺に収録された百姓身持之覚書に)つくのは、文政十三年の美濃岩村藩による版行以降である
(※印は水喜、引用は上同書)

 誰によってなされたのか。林述斎だと丸山氏は指摘している。
 林述斎は「徳川実紀」編纂の総責任者であるとともに、美濃岩村藩第4代藩主・松平乗薀(のりもり)の実子で大学頭・林家へ養子に入った人物で、岩村藩の後見役も務めていた。林述斎は三男としてうまれているが、上の二人は夭折し第5代藩主は朽木家から養子に迎えている。林家に養子入りしていなければ、述斎は3万石の大名となっていたわけで、岩村藩への言動には重いものがあったと思われる。 
 
 以上の説に反対し従来通り、実際に慶安2年2月26日に発布されたとする研究者も多い。
 例えば、「條令拾遺」には寛文期(1661-1672)までの法令が収録されている、「條令拾遺」を江戸後期に成立したとするのには無理があるのでは ? この疑問にたいしては巧く答えられていない。もう一つ、慶安2年から8年経た明暦3年1月に大火がある、江戸城天守・本丸御殿や大名・旗本屋敷のほとんどが灰燼に帰し、法令関連の書冊も焼失したのではないか ?

 「慶安御触書」と言われる32カ条は上記枠内文と大差ないので掲載しないが、どうしても読みたいと言う方は個人であたっていただきたい。さて、この触書が慶安2年に実際に発布されていないと、どのような不都合が生じるか、これである。近世の歴史学界で論争となるのは、慶安2年に発布されたものとして著作に引用・参照している研究者が多いからである。日々近世史を研究している人たちにとって、例えば「朝はとくおきて耨り」のカ所は問題らしい。どう問題かと言うと、江戸初期の農書「清良記」に除草論がなく天和期(1681-1683)頃の「百姓伝記」に除草論が出てくる、と言うようなものである。
 わたしから見ると、そんなことはどうでもいいと思える重箱の隅論的なことばかりである。ま、江戸時代に興味を持つわたしが敢えて気になるカ所を挙げるとすれば、「商の心をもて」のところであろうか。慶安期は新田開墾が現在進行形であった頃、商人の心をもつより田畑を広げる心を推奨すべき時代背景にある。他に飢饉時の備えや利息のカ所も気になる。よって江戸初期のものとは思えないのだが、一方で、単婚小家族や小作人に頑張って耕作すれば報われると説いているカ所を見ると、これは江戸初期かなとも思う。
 つまり、江戸中期以降と初期がごった煮になっているように感じる。林述斎に本当のところを訊いてみたい気もするが、こうした議論があることを知っておくのも損ではないと紹介した次第である。得にもならないが―。