奥医・桂川家の娘                                     江戸と座敷鷹TOP   江戸大名公卿TOP
 

■桂川家の家祖(初代)は、桂川甫筑という。寛文元年(1661)大和国に生まれ、当初は森島小助と名乗っていた。
 改姓改名するのは師事した判田甫安による。判田甫安は平戸藩松浦家の侍医で、長崎出島のオランダ商館医ダニエル・ボッシュから外科医の免許を授けられ、日本で初めて兎唇手術を行っている。京都に出て八条宮親王や一条右大臣など公卿の治療に功を立て、居住する嵐山に因んで「嵐山」と名乗ることを許され、寛文12年(1672)法橋(法眼の次の位、五位相当)に叙されている。
 この師匠の判田甫安が、「桂川は嵐山の下を流れ、末は大河となる、今後は桂川姓を用いよ」と命じたことから、森島小助は「桂川甫筑」に改めたといわれる。

 桂川甫筑も判田甫安に学んだ後、長崎出島のオランダ商館医に外科の教授を受け、元禄9年(1696)に甲府藩徳川綱豊の侍医となり、綱豊の6代将軍(家宣)就職に伴ない奥医師に就き、法眼に叙せられている。幕府奥医師の首席は朝廷から法印(法眼の上の位、内科に限る)、次席は法眼(外科)叙任の倣いであった。

 桂川家は7代甫周で明治維新を迎えるが、初代から奥医師・法眼を世襲し、徳川幕府にあって唯一蘭学研究の許された家であった。当主7代を数える中には通称を同じくする当主もいる。タイトル「桂川家の娘」に関わるのは7代当主の甫周なのだが、4代当主も甫周を通称としている。
 4代甫周(いみなは国瑞くにあきら)は「解体新書」の翻訳に参加したことで知られ、ロシアからの漂流民大黒屋光太夫らの調査を将軍家斉から命ぜられ、「北槎聞略」を纏めている。日本で初めて顕微鏡を医学に用いたことでも著名である。また、彼の弟に桂川甫粲(ほさん)がおり、医師の傍ら平賀源内の弟子となり戯作者として森島中良の名(他に二世風来山人、森羅万象などもある)で活躍している。
 さて、7代甫周(諱は国興くにおき)である。彼は安政5年(1858)に蘭日辞書「和蘭字彙(おらんだじい)」を校訂公刊したことで知られる。これは長崎出島のオランダ商館長ズーフが、フランス人フランソア・ハルマの纏めた蘭仏辞書を原典にして蘭日辞書の翻訳編纂に取り掛かり、ズーフの帰国後は幕命によってオランダ通詞吉雄権之助らが継続して
、天保4年(1833)に完成した「ズーフハルマ」だが、公刊は許されなかった。
 蘭日辞書「ズーフハルマ」の公刊が、西洋軍事技術の導入上から必要と痛感していた7代甫周は、幕府と再三折衝した結果、安政元年(1854)に許可されたのだった。


■桂川家を紹介し始めると、江戸期の蘭学史のようになってしまうが、本タイトル「桂川家の娘」で記したいことは、将軍と大奥のことなのである。
 「名ごりの夢」(平凡社東洋文庫)という本がある。「今泉みね」が口述した昔の思い出を纏めたもので、みねの父親にあたる桂川家7代甫周を中心に、親戚や甫周の周辺に集う人々について活き活きと語られ、幕末の江戸の風情がよく伝わってくるものとなっている。幕末の将軍、大奥の様子が垣間見える箇所もあり、これをネタ本に紹介したいと思うのである。


■今泉みねは安政2年(1855)に桂川甫周の次女として築地に生まれている。父甫周は30歳だった。
 甫周の出世は早かった。21歳で最も若年の奥医師に取り立てられ、さらに法眼の位に叙せられている。将軍に可愛がられたようで、「父がうたた寝していましたら、そっと御かいまきをおかけさせになったり、御自身のお膝を枕におさせになって、しずかに坊主あたまをお撫でになられたことがありますとか」と、うねが述べている。
 この時の将軍の名が記されていないので、推測するしかないが、甫周21歳の時の将軍は12代家慶。家慶の将軍在位期間は天保8年(1837)〜嘉永6年(1853)だから、家慶で間違いないだろう。甫周を法眼に叙任する際、将軍家慶は周囲に「このわがままは許せよ」と言ったそうである。

 甫周が将軍家慶から目を掛けられたのは、みねによると、甫周が19歳の年であった天保15年(1844)5月10日に妹の「てや」を亡くし、弘化元年(1844、天保15年はこの年の12月1日まで)12月6日に父の6代甫賢を逝かれていることから、「重ね重ねの不幸をことのほかふびんにおぼしめされた」のだという。


■甫周の妹「てや」の死については説明を要す。
 てやは天保11年(1840)、12歳で大奥女中見習いとして老女花町の部屋子となり、
同年呉服の間、翌年一位様(11代将軍家斉の正室寔子とくこ)付き御中臈へと進むが、天保15年5月10日暁に江戸城本丸が炎上する。
一位様は紅葉山にお立ちのきになられたのち、[花町は無事か、見てまいれ]との仰せ、叔母はひきかえしお探ししましたが、お局はすでに焼け落ちて、花町さまは影も形もなく、[お見えになりませぬ]と御返事することができずに、叔母は手燭を持ったまま燃えさかる真赫な火のなかにかき消すようにはいって行ったその姿をたしかに見とめたという人があったと申します
 てやに付いていた侍女二人も、てやの後を追って火中の人となったという。御殿勤めはまさしく命懸けだった。てや、享年16歳であった。


■一方で気持ちを和ませてくれる話もある。医師は男だが大奥へ出入りすることができた。以下の引用に登場する公方様は、やはり12代家慶だと推測し、病弱で35歳で亡くなった13代家定でも、大坂城で21歳で亡くなる14代家茂でも、ましてや2年ほどの在位でしかなかった15代慶喜でもないと思ったのだが、みね自身の感想が最後の行に記されていることから、みねが7歳くらいの文久元年(1861)前後のことかと思われる。となると、この公方様は14代家茂で、16歳前後の出来事となる。家茂と和宮の祝言が江戸城で行われるのは文久2年2月11日。風雲急を告げる時代背景の割りに、面白い遊びが行われていたものである。

お正月を迎えるごとに忘れられず、心にうかんできますのは、こんどのお屏風のおあそびのことでございます。
 なんでもお城表と大奥とは、何かにつけ大分にちがうそうですが、大奥も大奥、これはごく近侍の者、ことに奥医師たちに限られたものでございましたのやら。何か古事から出た吉例ででもあったのかと思いますが、まるで子どものようなあそびが始まります。どういうわけかわかりませんが、幼な心にただおもしろく父からきいておりましたとおりを申しあげます。
 公方様の御前、二双か三双か金屏風がぐるりと囲まれて、その中へ坊主あたまの御典医たちがくじをひいて一人ずつはいります。(中略)
 さてお屏風のなかでは外から何がとびこんできますやら、坊主あたまを気にしながらも、かしこまっておりますと、[御用意はよろしいか、そら、まいりますぞ]との声といっしょに、それでもはじめはお褥や御時服のような柔らかなものがほうりこまれますので、さっそく頂戴、頭へかぶってつぎの心がまえをしておりますと、ズシーンバタン、そらお机、お文庫、御用たんす、お硯箱やら花瓶やら、お火鉢に、掛軸、ひとしきりはつぎからつぎと降るようでございます。[もうよいか、まだか]とおそばから公方さまのお声、もう品物はお屏風のうえにまでもとどきそう、身の置き場所もないような中から[まあだ、まだ]と申しあげる者もありますし、二つ三つで[もうけっこうでございます。どうか御免をこうむります]と申しあげる者やとりどりで、公方さまは始終御満悦カラカラとお笑いだそうでございます。
 その折の品は全部拝領となりますそうですが、だれもそんなことを最初から考えにいれているものもなく、その様子のおかしさやなんかで大笑いだということでございます。御時服の黒綸子と白綸子をときましたら、はいっていますこといますこと、真綿のお山ができて驚いたことをいまもありありと私はおぼえております」


■将軍はどんな夢を見るのか。なんとこれについても記されており、最後にこれを紹介することにしたい。
 宿直番(とのいばん)の奥医を相手に、眠気醒ましに将軍は自分の見た夢の話をしたのだという。公方様は12代家慶だと思われる。

「ある晩のこと、お能があったあとと見えまして、ひろいひろいお座敷、十二双ぐらいの金屏風でとりかこみ、公方さまは脇息にもたれて、さも御こころよげにうとうとといねむりを遊ばしていらっしゃいました。夜はしんしんとして更けわたり、いわゆる草木もねむる丑三つごろ、どこからかチャカポコチャカポコと鼓の音がしてまいります。はて何だと御覧になりますと、幾十畳もあるたたみのへりから、あちらからもこちらからも総丈一寸ばかりの人形がぴょこりぴょこり一人いで二人いで数かぎりなく出てまいります。はてなとよくよく見ると、烏帽子装束狩衣姿につづみをもつものもあり、笛をにぎるものもあり、一人ひとりに可愛い金づくりの舞扇を手にして、

 チーチーチーバカマ(小、小、小袴)
 チーカリギヌニチーエボシ(小狩衣に小烏帽子)
 ヨーモフーケテソーローニ(夜も更けて候に)
 カッポンカッポンカッポンポン

 と大鼓小鼓でおどっています。右に行き左に行き、舞い進みながらすり足でそろりそろりとお衿のそばまでもよってくる。拍子にあわせて進みゆくけしきのいとものどかにおく床しい舞いすがた、まばゆいような金扇のひらめきに公方様はしばし見とれておられましたが、おや今日のお能は終わったはずだがなとお気がつくとたん、とのいの者のやってくるぼんぼりの灯に今までの姿も音もぱあっと消え、春の夢は醒めてあとにのこるのは賑やかなあとの一沫のさびしさでございました」